クリエイティブ・ユニットLENZのblogです。
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【新年のご挨拶】テツガクしようぜ!(高階記)
2018年 01月 04日 (木) 13:38 | 編集
新年のご挨拶申し上げます。
旧年中、お世話になったみなさま、ありがとうございました。
昨年は残念ながらご縁のなかったみなさま、今年は楽しい場面でご一緒できることを楽しみにしております。
さてそういうわけで、本日より稼働するLENZ LLC.の年頭のご挨拶をば。
 
近況報告的に振り返ると、先日アップした「量的拡大から質的向上へ」「生き馬の目を抜くな」「グローバラナイゼーション」を形にし始めたのが昨年でした。具体的に皆さんの目に触れるのが2018年の3月くらいになりそうですが、数年来考え続けてきたことを世に出すための仕込みの年だったという印象です。
 
いずれもリリース前なので、個別の詳細は後日また【近況報告】でお伝えしますが、テーマ的には「食」だったり、「防災」だったり、「表現」だったり、「多様性」だったりと、もう何年何年も向き合い続けているものばかりです。なので、何か全く新しいことを立ち上げたというよりは、あれこれ模索してきた「未来はこうあってほしい」というビジョンを表に問いかけるチャンスをいただいたという感じです。プロジェクトに呼んでくださった方々に感謝するばかりです。
 
LENZ LLC.の全く新しい動きとして
・朗読&即興創作ソロライブ
・草加市での朗読指導
なんてことも始まりました。これはどう続いていくのか自分でも読めていませんが、自分の拠り所となる根っこなので、こちらは大事に育てていきたいと思います。
 
共通するのは「みんなが常識と思っていることって本当にそうなの? 4半期ではなく、2〜3世代先にも通用するものって何だろう?」なんて具合に、ゆっくりじっくり考える必要があることばかりってところです。たぶんそういうのが性に合っているんですね。「なんか面倒なことをいう奴だな」と思われると寂しいので、先手を打って「テツガクしよう!」と呼びかけることにします。
 
「テツガクする? けっこうじゃないか」
と思ってくださったみなさん。2018年もジャンルにとらわれることなく、いろいろな場所に飛び込んできたいと思っています。いつでも気軽にお声掛けください。一緒に面倒くさそうなことをアレコレお話いたしましょう。長く生き生きと続くものを育てるために。
 
本年もよろしくお願いいたします。
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グローバラナイゼーション(2016年への助走③より)
2017年 12月 28日 (木) 09:03 | 編集
2年前の年末に「2016年への助走」と題して書いたものが、いまなお古びていなかったので転載する。こうして並べてみると、この数年、自分が言ったり首を突っ込んだりしていることは、割と一貫している。自分自身のポリシーとして間違っちゃいないんだなと思う。
 
   *
 
3つ目のこれは、まだ言葉だけ。
 
要するにグローバリゼーション(いろいろな意味があるみたいだけどここでは社会・文化・経済の国際的な平準化を念頭に書いてます)に何もかもが飲み込まれるのはちょっとヤダね、って話。
 
日本全国どこも都市の郊外に似たようなロードサイドのチェーン店がずらっと並んでいるようなの、気持ち悪いよねという感覚。グローバルな統一基準とかよく聞くけど、それはどこの文化のどんな価値観なのという疑問。経済的優位に立つ者が弱者を飲み込んで拡大していくけど、そこで失われるローカルだったりミニマムな価値はどうなるのという不安。
 
すごく感覚的だったり感情論的だったりするかもしれない部分だけれど、つまるところ「グローバリゼーションってなんか、ガサツじゃねえ?」というところに尽きると思う。
 
で、そういう国際的で圧倒的な勢いの流れに飲み込まれたり、踏み潰されたりせずに、小規模なりとも平然と元気にやっていけるような「場」なり「組織」なり「コミュニティ」なりをつくりたいし、どうせならばそっちの側を盛り上げることに関わった方が楽しそうだ。ということ。
 
とりあえずのメモ。
生き馬の目を抜くな(2016年への助走②より)
2017年 12月 28日 (木) 09:01 | 編集
2年前の年末に「2016年への助走」と題して書いたものが、いまなお古びていなかったので転載する。記述は2015年当時のものである。
 
   *
 
いま(2015年12月)『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン/講談社)をちょっとずつ読み進めていることは、このところちょくちょく書いているのだが、2011年11月に出たこの本を4年遅れで読みながら、あれこれ考えている。http://www.amazon.co.jp/dp/4062171260/
 
ジョブズという人のやり方に学ぶことなどないし(特異すぎる)、ジョブズが引っ張った時期のアップルの真似をする必要も感じないし(真似などまったく意味がない)、また、それを人にも勧められないけれど、にもかかわらず、ここには面白いネタがわんさか詰まっている。
 
例えば今日目にしたフレーズでも(たぶん有名な言葉だと思うが)
「自分で自分を食わなければ、誰かに食われるだけだからね」
という自社内の共食いを恐れない姿勢を示す言葉を読んで「なかなかそうは考えられない人の方が多いんだよなあ」と嘆息する。嘆息するが、これなんかは、ジョブズを例に出すまでもなく、腹さえくくれば誰にでも取り組める企業の活性化策、マンネリ脱出策である。
 
そんなことを考えながらふと思いついた。
 
「いまさらその本を読んでいるの?」と言われてしまうような本はたぶん読む価値がない。「生き馬の目を抜くような、変化の激しいこの世界で4年前の本になど意味がない」というようなレベルの本はそもそも一度も読まなくていい(極論です)。
 
面白いネタがわんさかあって、普遍的だったり、読んでいる時代の事象に適応して示唆するものがたくさんあるならば、4年経とうが、40年経とうが、その本は読む価値がある。そしてどうせならそういうものと出会い続けたい。
 
コピーライターなんぞと名乗り、広告の世界に身を置いて、熾烈な競争の中での生き残り勝ち残ることに血なまこになる価値観にどっぷり浸かっていると、ついつい目新しい情報に飛びついてしまいたくなりがちなのだけれど、4年経って古くなるような薄っぺらい情報を得意げに振りかざしてしまうとしたら、そんな奴はかえって迷惑だ。いない方がいい。
 
生き馬の目を抜くな。生き馬の目を抜く世界で借り物の知識をひけらかすような奴は信用するな。そんなことを考える年の瀬である。
量的拡大から質的向上へ(2016年への助走①より)
2017年 12月 28日 (木) 08:56 | 編集
2年前の年末に「2016年への助走」と題して書いたものが、いまなお古びていなかったので転載する。
 
   *
 
以前に、2年ばかりロッカクLLC鎌倉市観光協会のウェブサイトのリニューアルや運営をお手伝いしたことがある。観光協会のお手伝いというと、素人考えには「観光客数の拡大」みたいなことを考えてしまうわけだが、それはまったくの勘違いで、鎌倉市においては「これ以上観光客数を増やすことは考えなくていい。観光客と住民と地元の観光業者の三者にとっての“観光体験”のあり方、質を上げる段階にある」というのだ。
 
たぶん観光関係者の間では、成熟期段階の観光地においては、こんなのはとっくの昔に当たり前の議論だったのだろう。けれども、2011-12年ごろのぼくの頭にとっては、考えたこともない、とても新鮮な考え方だった。
 
(とはいえ、いま調べたら、その当時年間1800万人程度の観光客がいて、これ以上増やす必要はないと言っていたのに、2013年度には約2300万人、若干減った2014年度も約2200万人と2〜3割増えている! これは2013年の世界遺産登録関連で注目を集めた結果だとは思うが)
 
ビジネスビジネスした頭で考えると割と素朴に「量的拡大を目指すんですよねっ!」となってしまうのだけれど、鎌倉市が掲げていた「質的向上」というのは重要なキーワードだと思う。
 
特に日本のように、製品やサービスのクオリティは洗練されていて、いわゆる高度成長も終え、バブルの洗礼も受け、これから人口が減少する(消費者が減少する)国で、高度成長期を夢見るような量的拡大を目標に掲げるのは的外れだと言える。
 
国内マーケットの中で成長したいなら、いまはまだ存在しないマーケットを創造するか、既存の飽和したマーケットの奪い合いをするかのどちらかしかない。
 
(成長途上の海外マーケットに進出する場合は話は別だが、そちらはむしろ一昔前の日本で起きた歴史から学べるはずなのでここでは省略する。それも長い目で見れば海外の成長市場でもいずれ同じことが起きるので、まずは世界で先陣を切って少子高齢社会となり成熟段階に突入した日本を例に考える)
 
「いまはまだ存在しないマーケットの創造」は口で言うのは簡単だが、そうやすやすとできるものではない。ただし、そのために新製品・新サービスを生まなければできないかというと、必ずしもそうではない。いますでにある製品やサービスの意味づけを変える、視点をずらす、光の当て方を変えることで劇的に生まれ変わらせることができる、かもしれない。そのような新しい価値観やコンセプトの発見がキモになる。
 
「飽和したマーケットの奪い合い」については、もうすでに誰もがその真っ最中なので、新しく付け加えることもないが、実を言うとこれも上の「新価値観やコンセプトの発見」がポイントになる。なぜなら日本の製品やサービスのクオリティで、どんなにスペック競争をしても消費者から見ればほぼ「大同小異」で、本当のところ差なんてわかりっこないからだ。その結果、低価格競争の泥沼にはまって、あらゆる製品・サービスがコモディティ化する、なんて議論は耳タコ状態だ。
 
そうではなく、その製品サービスが提供する価値は何なのかを、「何を今更」とか言わずに、原点に立ち返って洗い直して、当たり前すぎて見逃している価値を再発見して、別なカテゴリの別なマーケットを生むことがチャンスを生み出すのだ。いわば価値の質的向上である。スペックを付け加えたりするような量的拡大ではなく。
【朗読を哲学する4】「できない」ということを大事にする
2017年 09月 24日 (日) 22:19 | 編集
これは畏友・本田秀夫氏のコラムの影響下に書く(具体的にこのコラムと指し示しにくいが「ドクター本田のにじいろ子育て」などご参照あれ)。

ぼく自身は、声については割と恵まれてきたと思う。飛び抜けて何ができるわけではないけれど、いろいろな声を出すことには前向きで、面白がって取り組んできた。近年特殊発声を面白がって一人で追求し続けているように、演技や何かとは関係なく、高低抑揚調子人格さまざまな音を出すことそのものに興味がある。出ない音が出るように追求することに興味があるし、それが全然うまくできなくても「これ、むずかしい!」と面白がることができる。
 
けれど、大多数の人にとってはそんなのはどうでもいいことだろう。声なんてふだんの声が出せれば十分。それが普通だ。

例えばワークショップの参加者から、ハミングをしながらビリビリ振動する場所があるということがよくわからないという声があった。それはコツでつかめるものかもしれないし、その人の頭蓋骨の構造上(たとえば鼻腔がポリープで埋まっているとか!)、振動したくてもできないのかもしれない。

また、ハミングで見つける共鳴はあくまでも頭蓋内のものであって、全身を使った共鳴とは違う。

声の高低をつけたり、抑揚をつけたりすることができない、やろうと思ったけれどできた試しがないという声があった。確かに抑揚たっぷりにしゃべれるとなんだかシェイクスピア俳優みたいでかっこいい気もする。でもシェイクスピア俳優って戯画化の対象でもあって、それが一番いいのかどうかわからない。ひょっとしたら、淡々と訥々と喋ること自体を掘り下げたほうがいい朗読にたどり着けるかもしれない。

ぼくは、ぼく自身が得意なことをみんなにさせようとするべきではない。という大事な発見にたどり着いた。もちろん、ぼくがやっているようなことをやってみたいと思う人に対しては伝えられることをなんでも伝えよう。

でも、ぼくはまず、その人が何ができないと思っているのか、そしてそれはできるようにしなきゃいけないのか、できないままで別な克服方法を探すべきなのか、そんなことを考えていきたい。

一つはっきりしているのは「楽器としてのからだ」を大事にしよう。あるいは「もっといい楽器」にしよう、ということ。そのためには一人一人が自分のかただの特性を自覚するように仕向けたいし、その過程を通じてぼくも一人一人の特性を把握して、その人ごとのいい声、いい音を探したい。

そういう意味では、目標に掲げた狙い通りの発声(音程・音量・音色・テンポ・リズム)というのはやや二次的であって、初歩の発声練習では、喉を潰さない発声、アンサンブルの面白さなど、そのままでできることを伸ばすことが大事かもしれない。

できないことを無理にできるようにするアプローチではなく、できないことを大事にして、ではその楽器では何ができるのかを丹念に探り当てることから始めよう。
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