クリエイティブ・ユニットLENZのblogです。
LENZ
広告方面の同業者で、若い人向けに、なんとなく打診(高階記)
2017年 01月 28日 (土) 18:38 | 編集
コピーライターとして30年くらい経験してきたことや、その中で発見したり体得してきた知識や技能をどどっと放出したくなっています(経験してきたこと、というのは割と面白いエピソードのようなことが中心で、「修行論」みたいなのはあまり関心がありません)。
 
知らず知らず蓄積してきた知見はとっとと次の世代に伝えてしまって、自分自身はそろそろ後半生向けの領域にシフトしようかと考えているわけです。とはいえ、その切り替えにはまだ数年かかかると思うので、まあ、だいたい60歳より手前をメドにシフトします。
 
で、ですね、すごく下世話な話ですが、例えば「競合プレゼンを制する企画づくりのTIPS」みたいなのを知りたいって人はどれくらいいるんでしょう?(ご興味があればコメント欄にお声がけください)
 
最近「なーんだ。そういうことだったんだ」って見えてしまったことがいろいろあるんだけど、この先自分がそれを使う機会よりも、今からこの世界でものつくりをする人、伸びる人の方が使う機会が多いし、はるかに役に立つだろうと思うわけですよ。そこで、なんとなく打診です。できれば「これから」の若い人向けに。
 
※誤解を招きそうなので補足。企画そのものは手を抜かずいいものを作るのは前提です。「カスを高く売りつける」「裏ワザで勝ちをもぎ取る」みたいな話ではないので、そういう期待を持った人は連絡しないでください。そういうご期待にはお答えできませんし、関わりたくもないです。
ハートに火をつけまくる件。〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト⑤(たかしな記)
2017年 01月 09日 (月) 10:56 | 編集
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(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)
 
最初に「あっ」と驚いたのは町山智浩氏がカブトムシが蜜をなめるシーンについて言及したのを読んだ時だった。人間が砂糖の配給やら闇市の値段やらで右往左往している時に、カブトムシは悠々と蜜を舐めている、と。そして昆虫が出てくる場面に注目しろ、と。2回目に劇場で見た時に昆虫たちが(わかりやすいアリのエピソードだけでなく)、いたるところに登場し、その場面で起きていることに対して様々な意図を持ったアクセントを添えていることを確認した。
 
それまで、昆虫が出てくる場面を昆虫に注目して観る、などということをしたことがなかったから、そういう「見方」に驚いたのである。なるほどなあ、ちょうちょやトンボも単なる田園風景を構成する要素じゃないんだ。いや、正確に言うと「単なる田園風景を構成する要素」が「その時も人間の社会の事情と並行してそこにあった」ということが、結果的に意味を持ってくるんだ。そう気づいて驚き、感心した。それを描いた監督にも、それに気づいた町山氏にも。
 
驚きはそれだけではなかった。次から次にカブトムシに匹敵する驚きが出現した。どういう順番でどういう風に驚いたかまでは忘れた。なので思いつくままにずらずら列挙する。
 
   *
 
最初の頃、応援をする気持ちはあるものの、まだそのための「ことば」が見つからず(つまり自分がなぜ「これはすごい体験だ!」と思ったのか、真価をまだつかみ損ねていた頃)、片渕須直監督のTwitterを追いかけ始めた。なぜなら『この世界の片隅に』という映画の中にどういう要素が入ってるのか、世界で最もよく把握しているのが監督本人だからだ。
 
その監督自身のコメントや、監督が「よくぞそこに言及してくれた」とリツイートすることや、場合によっては監督自身も「その視点は思いつかなかった」というポイントがそのTweetやリツイートを追うことで浮かび上がってくるだろうとぼくは考えたのだ。
 
まず目に付いたのは、「艦これ(艦隊これくしょん:戦艦を女性キャラクターに擬人化したゲーム・アニメ等のメディアミックス作品群)」や「ガルパン(ガールズ&パンツァー:戦車戦が大和撫子の嗜みという……自分でググってくださいな作品群)」のファンが食いついていることだった。もちろん「なぜだ?」とぼくは怪訝に思った。
 
彼らは戦艦や戦闘機などミリタリーなアイテムの描写を絶賛していた。「CGかと思ったら手書きであそこまで!」という具合に。それを読んでもぼくには具体的に何のことかさっぱりわからないのだが、とにかく戦艦や戦闘機に詳しい人たちが心を鷲掴みにされていることだけは理解できた。
 
すると、片渕監督がミリタリーなアイテムを描くことに長けているのは、過去にこれこれの作品を手がけているからだなどという解説が出てくる。あるいは戦闘機に詳しい人が「片渕監督は日本でもトップクラスの、戦闘機の塗装の研究家なのだ」みたいな話を始める。「へえ〜」「ほお〜」と感心するばかりである。
 
かと思うと、登場人物の名前が周期表に出てくる元素の名前にちなんでいるのではないかと指摘する人が出てくる(これについては、こうの史代さんが自らそのように説明しており、原作のファンの間ではよく知られたことらしい)。しかもその人は元素の特性を一つ一つ解説しながら、登場人物10数人のキャラクターと運命のようなものまで重ね合わせて解説してみせるのだ。驚嘆すべき内容だった。
 
そうかと思うと、服飾に詳しい人が、すずさんが身につけているものや、裁縫をしてつくるものについて解説をする。あるいはすずさんがつくる料理について解説をする。あるいは白いタンポポと黄色いタンポポのガクまで描き分けていることに言及する。あるいはポスターのすずさんの脇のバケツの中の「雑草」について、ひとつひとつ植物の名前を同定して「いまならおしゃれなカフェごはんの素材だ」なんてことを言う。以前に取り上げた「音響設計」についていかにすごいかを語る人も出てくる。アニメーションのテクニックとしてどんなことが行われているのか議論が始まる。
 
対空砲火の煙が色とりどりになる場面を、ぼくは「恐ろしいものなのに、それを美しいと感じてしまうすずさんの幻想」だと解釈していたのだが、Twitterのタイムラインを眺めていて、実際に、どの大砲の弾がどう着弾したか観測するために、爆煙に着色することが行われていたらしい。軍港の呉では複数の戦艦や、対空用の大砲があったため、あのように色とりどりになったのだという。
 
そういうことをさらっと、こともなげに解説してのける人が続々と登場してくる。ただもう驚きの連続である。
 
映画製作の裏話として、いまは失われた町を調べ上げて生き生きと描き出したことがよく語られる(いまは平和記念公園となっている一角に、冒頭のクリスマスに賑わう中島本町は実際にあって、目抜通りとして人々が集まって買い物をしていたのだ)。何度も広島・呉に足を運び、変わった風景や変わらない風景をロケハンしたこと。あるいは大和と武蔵が寄港していた日の天候を調べたこと、あるいは天井の板を外したタイミングなどの事実関係、あるいは楠公飯を実際につくって食べた話、とにかく徹底した調査の上で製作されたことが取り上げられる。
 
でもそういった「事実関係」だけでなく、ミリタリーなクラスタをうならせるディテール、昆虫をはじめ動植物に詳しいクラスタが驚喜する描き込み、服飾クラスタが分析したくなる描写、食のクラスタが食いつく素材やレシピなどが、非常にコアなレベルで表現されている。多種多様なクラスタが「ここまで描いている! これは自分にしかわからない。だからみんなに知らせなきゃ!」と反応するレベルで。『この世界の片隅に』について「語らずにいられない」思いにさせる要因の一つはここにもある。
 
先行して大ヒットした『シン・ゴジラ』も、政府内の会議、法律や手続き、自衛隊、軍事、生物学、防災、怪獣映画などさまざまなクラスタが反応したことが話題になったが、全く別なカテゴリではあるものの、『この世界の片隅に』においても幅広いクラスタが「この件は自分が言わねばみんな気付けないはずだ」と、ほとんど使命感に燃えて語り出す構図があったのだ。
 
すずさんと同世代の観客は見終わると同時に「あのままだった」「私の時はね」といつになく饒舌に語り始める。そして、監督のインタビューやティーチインに触れて、合唱しながら行進する女学生の運命、すずさんが自分自身に向けた怒りの爆発、割愛されたエピソードのキャラクターが一瞬だけ登場することなどを知ると、また劇場に足を運び確認したくなるし、確認すると語らずにいられなくなる。
 
そのようにして、驚くほど多岐に渡る人々が、それぞれの立場から「わたしにしかわからない、この映画の魅力」を語り始める。それはつまり「これは、わたしの映画だ」と感じているということなのだ。ぼくはそのことに圧倒される。「いい映画を見せてもらった」という他人事ではなく、「わたしの映画」として「わたしにしかできない説明」をしたくなるし、「わたしだけが気づいたであろう発見」について報告したくなるのだ。
 
長くなるので、今回はここまでにするが、もう一つ大事なのは、その全てを「すずさんが見聞きし、体験したこと」のレベルで描いているということだ。決して「軍部の戦略」や「戦況」や「当時の世界情勢」などは描かない。そんなものを描いてしまうと、とたんに「わたしの映画」ではなくなってしまうからだ。すずさんが体験し、見て聞いて考えたことが正しいか正しくないかなどということは全くどうでもいいことなのだ。別な主人公なら別な受け止め方をしただろうし、別な行動をとっただろう。肝心なのは、あのすずさんが、世界の片隅にいて、見て聞いて感じて考えたことと、ただ向き合うことなのだ。その結果、『この世界の片隅に』は非常に多くの人にとって「わたしの映画」になったのだ。でも、このことはまた項を改めて書くことにしよう。
 
【補足1】
ここに出てきた内容を知りたい人もいるだろうから、そのうち調べてこのブログにまとめて掲載する。どうぞお楽しみに。とりあえず、いますぐ見つかったものだけ貼っておく。
 
●町山智浩 『この世界の片隅に』徹底解説
 
●「この世界の片隅に」青葉が主人公!?

●「この世界の片隅に」の化学

●【映画の料理Vol.20】『この世界の片隅に』のすずさんの野草を使った工夫ご飯

●『この世界の片隅に』弾薬雑考その1(高角砲着色弾)
 
ほんとは、まだまだあるんですが、追い追い足していきます。

【補足2】
ここに書いたようなことを「1回では見切れなくらい情報量が多いからすごい」と言ってしまうこともできるのだけれど(そして、それは決して「間違い」ではないのだけれど)、そう言って片付けてしまうとずいぶん雑になってしまうのである。「『踊る大捜査線』は画面の中の情報量が多いから面白い」というのとは質的にも技術的にも別な話なのだ。
【迎春】この世界の片隅にて、新しい日の訪れを告げる(高階記)
2017年 01月 03日 (火) 17:36 | 編集
あけましておめでとうございます。
 
新年早々ですが、そして酉年ですが、そういう年始感を一切抜きにたっぷり書きます。お時間の許す方だけお付き合いください。長くなるので最初に要点をまとめておくと
 
(1)「方程式」に飽き足らない人とご一緒したい
(2)『Silently She Dances』で火がついた件
(3)複数のライフワーク領域の融合

 
について書きます。ここまででピンときて直接話を聞きたいという方はすぐにご連絡ください。ぼくはあなたと仕事をしたいです。なんだかわからないけど面白そうだと思った人は、長文ですがお付き合いください。そして納得が行って、「こいつ面白そうだから声をかけよう」と思ったら遠慮なくご連絡ください。ぼくもあなたと話をしてみたいです。
 
 
(1)「方程式」に飽き足らない人とご一緒したい

年末からせっせとブログを更新しているので、すでにお気づきの方も多いでしょうが、ふとしたことがきっかけで映画『この世界の片隅に』の試写会を観て、以来2ヶ月以上にわたって熱中状態が続いています。映画として素晴らしいのはもちろんですが(面白くて目が離せなくて耳も澄ませ続けて笑えて痛切で長くしみじみ噛み締め続ける幸せな映画です)、ぼくの心を捉えているのはもうちょっと別な要素もあるようです。単に「いい映画だった」ということではないのです。
 
その製作過程について知り、そして作り手の姿勢について読み、その原作を手にして改めてものがたりをたどり、関わったクリエイターたちの仕事ぶりについてもれ聞き、さらにはクラウドファンディングに始まって、まだ映画が存在しない時から「この映画が見たい」と応援し続けてきた人々の応援ぶりを目撃し、そして映画完成後の試写会から沸き起こった観客の熱い反応に触れ、TwitterやFacebookでの監督やプロデューサー、公式アカウントがファンと交流する様子を追い、とにかく映画を取り巻く状況の全てが魅力的なのです。
 
ちょっと仕事よりのスタンスで、乱暴なまとめ方をするならば、「マーケティングではじき出した、売るための業界の方程式」に全く縛られることなく、信じる道を選びとって新しい道を切り拓いてみせたわけです。これはとても元気が出る話ですし、それを成し遂げたのが、ぼくより少しばかり歳が上の片渕監督をはじめとするチームだったということにも勇気付けられます。
 
誤解があるといけないので言葉を添えると、「だからクラウドファンディングを使おう」とか「SNSを効果的に使おう」というような、薄っぺらい、表層的で考えなしの話ではありません(たぶんそういうやり方をして派手にこける人たちが続々と出てくると思いますが)。
 
映画『この世界の片隅に』が成し遂げたのは、コンテンツとしての作品のクオリティをとことんまで追求しつつ、資金の集め方、情報の拡散の仕方、話題の広め方、国内外の映画館へのプロモーションなど、作品に最適な道を苦労して探し当てて、新しい道を切り拓いた点にあります。表層的な手法だけ真似しても無意味です。ど真ん中に非常に優れた作品がある、その一点こそが重要なのです。そしてそれを信じ、守り、大切に育てる人々がそのまわりにどんどん増えていった。
 
手法ではなく、そういう姿勢に共感できる人、そういうものづくりを志す人と出会い、場合によっては仕事としてご一緒したい。それがぼくの願いです。2017年初の計というよりは、『この世界の片隅に』と出会って以降、この先ずっとそうありたいという宣言です。映画が、新しい世界への扉を開いて見せてくれたからです。「みんなが信じ込んでいる方程式とは違う道」に興味がある方、ぜひお声がけください。
 
 
(2)『Silently She Dances』で火がついた件
 
さて、ぼくは「ことば師」と名乗って創作活動もしています。演劇の上演台本を書いたり、映像のシナリオを書いたり、自分自身の身体表現を使ったパフォーマンスをしたり、演出に関わったりしています。そして、昨年の2016年はある意味で集大成的な作品に関わることができました。
 
ぼくは1998年以来、阿部一徳という世界の演劇界が認める傑出した語り手の一座に加わり「音楽として語られるものがたり」の上演台本をいくつも手がけてきました。ぼくの書くテキストが「発声されること」を意識したもので、音色や音程やリズム、テンポを想定したものが多いのはそういう背景があります。
 
それを感じてくださったのでしょう、和太鼓奏者のレナード衛藤さんから声がかかり、昨年上演された『Silently She Dances(静かなるダンス)』のプロジェクトが始まりました(レナードさんは「和太鼓奏者の」と書くのがためらわれるほど、和太鼓という楽器の表現の世界を広げ続けている独創的なパフォーマーです)。
 
デーモン閣下という、これまた百戦錬磨の朗読家と、林正樹というピアノのファンタジスタを迎えての朗読バージョン、前田新奈をはじめとするダンサーチームと、和太鼓とピアノのアンサンブルチームによるダンスバージョンの公演は個人史的にも大事件だったと言ってもいいと思います。両公演とも、まさに「音楽としてのものがたり」が実現していました。
 
デーモン閣下を迎えての朗読バージョンが上演された会場も、個人的には盛り上がるものでした。5月はライブハウスの「duo MUSIC EXCHANGE」。バブル期をご存知のみなさんなら円山町の「ON AIR」としてご記憶の方もいるでしょう。11月の銀座王子ホールはクラシック系のコンサートホールとして音の良さで定評のあるホールです。いずれも自分が書いたものが上演される場所として想像したこともなく、またそれらの会場で、これまで出会う機会のなかったお客さんと出会い、作品に触れたお客さんたちがネット上で感想をやりとりしてる様を見ることができるなど、感慨深いものがありました。
 
何が言いたいかというと、要するに「火がつきました」ということです。2017年を、これまで以上に創作活動の領域を広げていく年とできればと考えています。また、そうした方が、コピーライティングの仕事にも厚みや深み、そして広がりを増すものと信じています。昨年でっち上げた「日本虚構エッセイストクラブ会長」としてもリアルな活動を開始します。
 
 
(3)複数のライフワーク領域の融合
 
2016年から取り組み始めたテーマに「得意領域を明快にする」ということがあります。これまでもいわゆる広告のコピーも書けば、ファシリテーターも務め、ウェブサイトの企画構成もすればアプリの開発もする、著名人インタビューの聞き手を務めたり、コンサルティングや商品開発にも関わり、そうかと思うと演劇・映像のシナリオやら演出やら出演やらをするというので、何をしている人か自分でも説明するのが難しいという状態が続いていました。
 
時にはクライアントさんから「謎のコピーライター」などと呼ばれて、面白いので本人もまんざらでもなかったものの、さすがに生後半世紀を超えてこのままではいかんだろうと、いささか遅すぎる結論に達し、どういうユニークネスがあるのかを明らかにしようと考えるようになりました。
 
まず上にも書いたように、創作表現に関してぼくは実作者としても、演出家としても場数を踏んできました。これはぼくの基本スペックとお考えください。上に書いたようなコピーライティングやファシリテーション、ネット・コミュニティの運営などは、創作家・表現者としてのスキルの上で行ってきたわけです。
 
テーマ領域として、「森」「防災・減災」「自閉症スペクトラム」に関してはライフワークと位置付けていて、何年でも語れるだけの背景があります。付け加えるなら「ビール」「古典芸能」「食」「教育」「鎌倉」についても何日間でも語り続けられます。いままでお付き合いのある人ごとに自分の多面的な「顔」の一部分だけを示してきたのだけれど、もっと領域を超えて複数の顔を示していこうと考えています。
 
思いがけない発想や、見逃されてきた視点、そして上にも書いた「みんなが信じ込んでいる方程式」とは違う規格外の道を提供するためにも、意図的にこれらの知識や体験をフルに動員していこうと思います。そういう打ち合わせに興味がある方も気軽にお声がけください。まずはコーヒーを飲みながらおしゃべりするところから。
 

●終わりに
 
ものづくりに関わる者のはしくれとして、個人としても、チームの一員としても、あるいはコラボレーションのパートナーとしても、できるだけたくさんの作品を世に送り出していく一年とするべく進みます。それは広告かもしれないし、舞台かもしれないし、スマホアプリかもしれませんが、それぞれの領域で「作品」と呼べるような、規格外のものづくりをめざします。その過程でたくさんの方と面白き時間をご一緒できれば幸いです。難度の高いお題も大歓迎です(無理に難度を上げる必要はありませんよ(笑))。2017年、世を騒がすプロダクトを送りだしたい方、ご一緒いたしましょう。

ご連絡は
・当ブログのコメント欄でも、
LENZ LLC.のFBページでも、
高階のFacebook個人アカウント宛てメッセージでも、
使いやすいものをご利用ください。
描くこと。描く人。〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト④(たかしな記)
2016年 12月 24日 (土) 11:00 | 編集
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(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)
 
すずさんの素晴らしい才能の象徴である右手については、すでにものすごく徹底的な分析があるので、ぼくはそこには踏み込まない。下記のブログをご参照ください。「映画の本当の主人公は誰か」という刺激的な解釈で、とても読み応えがあります。
 
●『この世界の片隅に』と、「右手」が持つ魔法の力
 
ここでは「描くこと。描く人。」というテーマで考えたいと思う。ぐっと個人的な関心事に引きつけて言うなら、自閉症スペクトラム的な傾向を持った一点集中型の主人公について考えてみたい。
 
例えばすずさんは子どもの頃から絵を描くことが好きだ。絵を描くことが好き、というレベルではなさそうなことは、あの鉛筆のちびり具合からもわかる。ぼーっとしていると周りからは思われているが、彼女が描く漫画を見れば、少なくとも絵を描くことに関しては非常に高い集中力の持ち主であることは明らかだ。観察力があり、物語を構想する力があり、没頭して描き続け描き上げる力がある。
 
ではすずさんがとても器用かというと、裁縫をやらせると「そんなことじゃ嫁に行けん」と叱られるほど下手だ。好きなことにはとことんのめり込むが、やり方は自己流だ。着物の縫い目を解きもせずばっさり切ってしまう。食べられる植物を覚えて集めてきて自己流にアレンジして調理する様はほとんど創作料理だ。
 
そしてすずさんには皮肉が通じない。「あんた広島へ帰ったら?」と言われて文字通りの意味にとって、径子を呆れさせる。そして嬉々として帰省する。でも本人も気づかないうちにストレスを抱え込んでいるのはハゲが示している。極めて自閉症スペクトラム的だ。
 
要するに、部分的には、はたから見ても驚くほどの集中力や、場合によっては才能の輝きを見せるけれど、生きていく上ではあまり器用とはいえない。むしろ「ぼーっとしている」「何を考えているかわからない」「人の話を聞いていない」「周りからどう見られているかわかっていない」「空気が読めない」というタイプの人間だ。ひどく乱暴な決めつけ方をすれば「描くこと以外、能がない」と評されかねない人間だ。
 
こう書くと、高階はすずさんの悪口を書いていると考える人がいるかもしれない。とんでもない。上のパラグラフだけでぼくはもうすずさんにメロメロになってしまう。なぜなら、漢字こそ違うが、ぼくもまた「書くこと以外、能がない」人間だからだ。そして知りあいでもないけれど言わせていただくと、片渕須直監督も、こうの史代さんも、それから主演を務めたのん(本名・能年玲奈)さんも、恐らく同じカテゴリに属しておられるように(勝手に)感じている。
 
そう。『この世界の片隅に』は、「それ以外、能がない」タイプの人を中心に据えた物語なのだ。「生きづらさをかかえるアーティストの話」とこじつけたくもなるが、すずさんは自分で自分のことをアーティストとは思っていないし、周りからもそうは思われていない。ひょっとすると金賞をもらった水原さんはちょっとそんな目で見ていたかもしれないが。その水原さんも「すずは普通だ」という。だからこれはやはり「描くこと以外、能がない普通の若い女性」の話なのだ。
 
「描く」というのは文字通り鉛筆や筆を手にして、紙にかき付けることだけではない。冒頭船の中で「これからお兄ちゃんやすみちゃんに何を買って帰ろうか」と思い描くとき、すずさんは両手の人差し指を中に漂わせ交錯させながら考え事をする。径子さんに言われて服を仕立てる前にも同じ仕草をする。イマジネーションを働かせ、何かを構想するとき、すずさんは「描く人」になる。
 
再びこじつければ、それは原作者・こうの史代さん自身の分身に違いない。すずさんというキャラクターのあの実在感を考えると、これはほぼ間違いないと想う。そしてそれを一読してとても大切な作品だと受け止めた片渕監督も、誘いを受けて作品に触れて「ぜひやりたいです」と言ったのん(本名・能年玲奈)さんもまた、そこに自分の姿を見つけたのだと思う。
 
そう考えると、この映画に数多くのアニメーターやマンガ家・イラストレーターはもちろんのこと、ミュージシャンや作家などのアーティストがはまり、一斉に声をあげている理由が見えてくる。「絵を描くことしか、能がない」「曲を書くことしか、能がない」「楽器を演奏することしか、能がない」「文章を書くことしか、能がない」と周りから見られ、たまに尊敬されることもあるが、日常生活ではポンコツ扱いされ、でも「そうすることしかできない」から、「誰がなんと言おうとそうしていたい」から、ずっとそうやってきた人たちの心をとらえるのだ。
 
これは、何かの世界のマニア、おたく、研究者にも通じる。『この世界の片隅に』への人々のコメントの中で、とりわけぼくの心をくすぐったのはあらゆるジャンルのマニアたちが一斉に反応したことだ。この話はこの話で1回使いたいので、ここではさらっと流すが、彼らもまた同じカテゴリに属する同類なのである。
 
「そうすることしか、能がない」人々は、愛情を持って描かれた自分の分身を愛おしく見つめることになる。そして時限装置のついたあの忌まわしい爆弾のせいですずさんが右腕を失ったとき、そのあまりの残酷さに心の底まで凍りつくことになる。それは、絶対に起きてはいけないことだからだ。そんなひどい仕打ちはないからだ。しかもすずさんは晴美さんを死なせてしまったという罪悪感のもと、自分の右腕の喪失を悼むことすら許されない。まるで「当然の罰」のように受け入れざるを得ない。受け入れたくなどないのに。
 
あの展開の持つ意味は、ひょっとすると「そうすることしか、能がない」人と、器用に生きられる人の間でかなり違って見えるのではないかと思う。これは推測なので、わからないけれど、「そうすることしか、能がない」人にとって、右手を失うことは、生きる原動力を根こそぎ奪われたことを意味するのだ。その感覚は、たぶんわかってもらうのは難しいと思う。以下、そのわかりにくい話を続ける。
 
生きていく唯一無二の手がかりを奪われ、相手が自分を必要としている以上に必要な存在だった晴美さんを死なせてしまい(すずさんが殺したわけではなけれど、そう考えずにはいられない)、その母親と暮らす家の中に居場所はなく、家事どころか自分の服さえ着られない嫁に居場所はなく、晴美さんのいなくなった世界に居場所はなく、手をつないだり絵を描いたり薪を割ったりした右手のない世界に居場所などほしくもなく、だから周囲の人々の口から何気なく発せられる「良かった」ということばを、すずさんは受け入れることができない。良いことなんて一つもないから。
 
だから2つ目のエンドロールで右手が登場したとき「それはずるいよ」とぼくらは思う。だって右手は決して帰ってこないのだから。右手が出てきて絵を描くなんて、そんなの安直なファンタジーじゃないかと思うのだ。けれどそうではないことがわかる。右手は描く。リンさんの人生を。すずさんが知ることのないまま終わったリンさんの人生を。これはつまり「すずさんの見たものだけを描いた本編」とは別な、「描くこと」の意思表明なのだ。失われたものが描く失われた世界の失われた人たち。
 
右手は失われても「思い描く力」はまだある。映画の終盤、すみの傍ですずは「手がありゃ鬼イチャンの冒険記でも描いてあげられるのにね」と言う。そして鬼イチャンは南洋で生き延びて、幼少時代に見た人さらいの「バケモン」として復活し永遠の命を得ることになる。「描くこと」ができなくなっても、すずさんの「思い描く力」はものがたりをつむぎはじめる。それを60年も経て、一人の女性のマンガ家が受け止めてマンガにする。それを、さらに一人の映画監督が受け止めてアニメーションにする。そういう壮大なものがたり、「描くこと。描く人。」の大河ドラマを感じ取って、「そうすることしか、能がない」人々は勇気を受け取るのである。
音の風景。映画館で観るべき理由。〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト③(たかしな記)
2016年 12月 23日 (金) 18:22 | 編集
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(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)
 
一般にアニメーションというと、平面に二次元の絵を描いて、少しずつポーズに変化をつけて大量な絵をパラパラマンガ的に処理して「動いて見える」ようにすることだと思われていると思うし、その理解が間違っているわけでもないだろう。
 
少し言葉を聞きかじっている人ならば、「animate」という単語には「生命を吹き込む」という意味があることを知っている人もいるだろう。そんな人は、AIでつくったゾンビのような動きをする人体の動画を見せられて激怒する高名なアニメーターの発言に「よくぞ言った。あそこには生命への尊厳がない!」なんて拍手を送ったりする(つくったのはAIだし、動いているのはゾンビだから、当たり前のことを言っているだけなんだけどね)。
 
閑話休題(そんなことはさておき)。
 
パラパラマンガにしても、animateにしても、いずれも視覚、ビジュアルの話をしている。でも一枚の静止画に命を吹き込む方法は視覚情報だけではない。サウンドトラックの出現以降、音もまた命を吹き込む役を担うようになった。
 
それはそうだ。画面で誰かに口をパクパクさせておいて、黒背景に白抜き文字で「火事だ!」と表現するよりも、画面にしゃべっている人は写っていなくても緊迫した声で「火事だ!」と聞こえた方がより臨場感が増すというものだ。誰にだってわかる話だ。
 
でも多くの人はアニメーションというと、ついついビジュアルな話のことを思い浮かべてしまうのだ。
 
『この世界の片隅に』を見た人ならわかるように、片渕須直監督は優れて視覚的な表現者だ。徹底した調査の話はよく聞くが、徹底した取材までなら、まだ途上に過ぎない。その取材を元にして、作品にふさわしい取捨選択を行いながら「すずさんが本当に生きている背景の世界」を作り上げたわけだ。調査も凄いが視覚表現による世界の再構築こそが凄い。
 
同じ建物だって竣工直後と、何年も経ってからでは違って見える。すずさんがその傍を通り過ぎた時のその建物はどのくらい新しく、どのくらい古びているのかを資料に基づいて定め、色や質感を決め風景の中に落とし込んで行く。橋も同じ。川や山や海は当時どうだったのか。町の遠景はどう見えたはずなのか。人々はどのような服を着て、どのように佇んでいたのか。
 
設定画の話だけではない。白波がウサギの跳ねる姿に見える海、色とりどりの対空砲火に染め上げられる空に叩きつけられる絵筆、爆発事故後の実験映画的なシーケンスに始まって続くすずさんの心象風景の世界は、アニメーションだからこそ可能なビジュアル表現の可能性を繰り出して、目を楽しませ魂を深くえぐる。よく出てくる「ショートレンジの仮現運動」にしても上記の実験映画的なシーケンスも「視覚表現の人」としての面目躍如だ。
 
でも、ここで書きたいのは「音」の話だ。つい監督の視覚表現に我々の目は奪われてしまう(文字通り、「目」が奪われてしまう)。けれど片渕監督の凄みは、それだけでなくとてつもなく「いい耳」を持っていることではないか、ということをここでは書きたい。
 
   *   *   *
 
呉の町についに敵機の姿が現れたシーンで、明らかに何かが変わる。そこで極めて重要な役割を果たしているのが「音」だ。監督はインタビューで、自衛隊の演習場で実際の音を録音したこと、その生々しさに戦慄したこと、それをあの「ぼーっとした」すずさんが体験したことに想いを馳せ、彼女がどれだけ恐怖心を味わっただろうかと考えたと語っている。
 
映画を観ながら、そのシーンまでの間にぼくらが体験しているのは、田舎ののどかな音の風景だ。家にいれば家族の声が聞こえ、包丁を使う音、かまどの火の音、ふつふつ炊ける音、水を運ぶ音、薪を割る音が耳に入る。季節ごとに鳥のさえずりや、虫の声も聞こえる。少々大きめの音であっても、いずれも穏やかにくつろげる親しみのある音ばかりだ。ちょうちょがひらひら飛んでいるような、のどかな田舎の音世界だ。その上に突如全く異質な音量と質感の砲撃音、爆撃音、機銃掃射音が切り込んできて、ぼくらの身をすくませる。耳だけでなく、皮膚や腹の底までの振動として轟く音。
 
すずさんが聞いた通りの音量で、すずさんが体験した通りの唐突さで、一瞬何が起きたのかわからないくらい鋭く、音の塊が切り込んでくる。それまで味わったことのない音なので、それが恐いことなのかどうかも正確にはわからない。一種の思考停止をもたらす。そういう音の風景が突如割り込んでくる。それ以降、来る日も来る日も「警報、もう飽きたあ」と言いたくなるほど続き、それまでの世界を完全に変えてしまう。
 
世界の片隅で生きる、歴史上には名前の残らないごく普通の人の日常の中に、戦争は突如割り込んできて、その世界を決定的に変えていくということ、すずさんの味わった世界の変化を、音を通して観客に体験させているのだ。ストーリー展開で見せるだけではなく、聴覚体験として、抗いようのない巨大な力を持つ災厄が日常を破壊する様を体験させているのだ。
 
なぜそんなことをするのか? 目的ははっきりしている。そのような出来事は何も遠い70年前の軍港の町だけの出来事ではないからだ。2016年7月の南スーダンの首都ジュバでも、2016年11月のシリアのアレッポでも、2016年12月のベルリンのクリスマス市でも、いままさに起きているからだ。ジュバの人たちもアレッポの人たちもベルリンの人たちも、そうなるまではまさか自分たちがそんな目にあうとは考えていなかっただろう。
 
2016年12月、ぼくらは自分の住んでいる町でそんなことが起きるとは考えていない。でもすずさんだって、裏の段々畑で警報もなしに空襲に遭遇したり、家のすぐ近くで自分が機銃掃射されるなんて考えていなかったろう。「遠い、特殊な時代の、かわいそうな女の子」の話ではなく、ぼくらの時代と地続きだ、ということを、音でも表現しているのだ。
 
もちろん、それだけではない。監督は前作で起用したコトリンゴの歌声(それはどことなくすずさんの声のようにも聞こえる)、楽曲や曲調、最後のピースとして追い求め続けたのん(本名・能年玲奈)の声、などへのこだわりにも「耳の良さ」が光っている。
 
クレジットに「音響監督:片渕須直」とあることに、多くの人は気づかないだろうけれど、画面の中に何を登場させ何を登場させないか、視覚表現者である監督が隅々まで目を光らせているのと同様に、『この世界の片隅に』において、どの場面で何の音が聞こえ、どのように聞こえるべきなのかを隅々まで耳をすませて設計しているということを意味しているのだ。
 
耳だけでなく、全身で味わう音なので、これはヘッドホンではダメだし、よほどの設備があれば別だが、一般的な自宅の音響設備では絶対に味わえない。だから映画館で体験するしかないのである。
 
【補足】
ぼくなりに長々と書きましたが、音に詳しい人が11/18に書いたブログを発見したのでひれ伏してご紹介します。
●「その音景の片隅に」(『この世界の片隅に』感想文)
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