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【朗読を哲学する4】「できない」ということを大事にする
2017年 09月 24日 (日) 22:19 | 編集
これは畏友・本田秀夫氏のコラムの影響下に書く(具体的にこのコラムと指し示しにくいが「ドクター本田のにじいろ子育て」などご参照あれ)。

ぼく自身は、声については割と恵まれてきたと思う。飛び抜けて何ができるわけではないけれど、いろいろな声を出すことには前向きで、面白がって取り組んできた。近年特殊発声を面白がって一人で追求し続けているように、演技や何かとは関係なく、高低抑揚調子人格さまざまな音を出すことそのものに興味がある。出ない音が出るように追求することに興味があるし、それが全然うまくできなくても「これ、むずかしい!」と面白がることができる。
 
けれど、大多数の人にとってはそんなのはどうでもいいことだろう。声なんてふだんの声が出せれば十分。それが普通だ。

例えばワークショップの参加者から、ハミングをしながらビリビリ振動する場所があるということがよくわからないという声があった。それはコツでつかめるものかもしれないし、その人の頭蓋骨の構造上(たとえば鼻腔がポリープで埋まっているとか!)、振動したくてもできないのかもしれない。

また、ハミングで見つける共鳴はあくまでも頭蓋内のものであって、全身を使った共鳴とは違う。

声の高低をつけたり、抑揚をつけたりすることができない、やろうと思ったけれどできた試しがないという声があった。確かに抑揚たっぷりにしゃべれるとなんだかシェイクスピア俳優みたいでかっこいい気もする。でもシェイクスピア俳優って戯画化の対象でもあって、それが一番いいのかどうかわからない。ひょっとしたら、淡々と訥々と喋ること自体を掘り下げたほうがいい朗読にたどり着けるかもしれない。

ぼくは、ぼく自身が得意なことをみんなにさせようとするべきではない。という大事な発見にたどり着いた。もちろん、ぼくがやっているようなことをやってみたいと思う人に対しては伝えられることをなんでも伝えよう。

でも、ぼくはまず、その人が何ができないと思っているのか、そしてそれはできるようにしなきゃいけないのか、できないままで別な克服方法を探すべきなのか、そんなことを考えていきたい。

一つはっきりしているのは「楽器としてのからだ」を大事にしよう。あるいは「もっといい楽器」にしよう、ということ。そのためには一人一人が自分のかただの特性を自覚するように仕向けたいし、その過程を通じてぼくも一人一人の特性を把握して、その人ごとのいい声、いい音を探したい。

そういう意味では、目標に掲げた狙い通りの発声(音程・音量・音色・テンポ・リズム)というのはやや二次的であって、初歩の発声練習では、喉を潰さない発声、アンサンブルの面白さなど、そのままでできることを伸ばすことが大事かもしれない。

できないことを無理にできるようにするアプローチではなく、できないことを大事にして、ではその楽器では何ができるのかを丹念に探り当てることから始めよう。
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観客への信頼感。もしくは、タイムマシンに「つくり手の意見」は無用〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト⑥(たかしな記)
2017年 08月 26日 (土) 18:39 | 編集
(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします。文末に想田監督からのリプライを追記しました)

実に半年以上間があいたが、とても興味深い文章を読んだので、その周辺を少し考えてみたい。その文章とは想田和弘監督がFacebookに投稿したもので(日本時間:8月24日20時23分)、詳細はご本人の文章を読んでいただくとして、すごく乱暴に要約すると、「政治性の欠如が気持ち悪くて仕方なかった」ということに尽きる。そして「政治の産物であるはずの戦争から政治性を脱色してしまって、本当にいいのでしょうか。戦争をあたかも自然災害のごとく描いてしまって、本当にいいのでしょうか。」と問いかける。
 
裏返して言えば、想田監督は「戦争を描く以上は政治性を描かねばならない」と考えているということがわかる。政治性を描くとはどういうことだろうか。「自然災害のごとく描いてはいけない」と考えておられるわけで、つまり「憲兵や隣組のような監視手段を策定した者やその意図」や、「そこに疑問もなく従う者たちが引き起こす残酷な振る舞い」や、「呉という軍港への空襲や、民間人も標的にした米軍の作戦の意図」や、「それまで標的ではなかった広島に原爆を落とす判断をした者の存在やそこに至る背景」を描き、観客に伝えるべきだ、考えさせるべきだということだろうか。いわゆる社会派の作品の創り手にとっては、そこは外しちゃいけない部分なのだろうと推察される。

『この世界の片隅に』はタイトルが表しているように、徹頭徹尾「世界の片隅」の視点から描かれた作品だ。当時の政治や戦争を動かしていた(とされる)天皇の視点や、軍人の視点や、政治家の視点は一切出てこない。毎日の生活に精一杯の、権力とも財力とも無縁の、景気によって生活が左右される庶民の目線で描かれている。彼らが知り得ないことは出てこない。
 
庶民の視点でそれらの日々はどんな風だったのか、それをありありと体験するために徹底的に背景を描き出す。街並み、天候、衣食住をはじめとした暮らしぶり、戦況に応じての様々な変化、実際に発令された空襲警報の日時と解除までの時間、軍港に見えたものなどを可能な限り調べ上げ映像に定着する。その結果『この世界の片隅に』はタイムマシンとして機能する。当時実際に呉に暮らした人々が「あの通りだった」と感想をもらす正確さで。
 
そしてそこには「つくり手の意見・主観主張(想田監督のご指摘を反映)」は入れない。なぜならタイムマシンにそんなものは不要だからだ。観客は淡々とそこを訪れ、ある時間を過ごし、さまざまな出来事に直面し、そして帰ってくる。その体験を通して観客ひとりひとりが、自分の中で何らかの考えを見つけ出す。そこには、観客に対する圧倒的な信頼感がある。きちんと描けば必ず何かを感じ取ってもらえるという信頼感だ。

それは、言葉で説明するのではなく「体験を通じて感じ取るものこそ、観客の心の中に深く長くとどまり、個人の体験レベルで受け止められる」という考え方をベースにした方法論だ。その方法論においては、つくり手の決めつけや、誘導は余計なものでしかない。言語化可能なものは表層にしか届かない。
 
社会派作品のつくり手は、まず伝えたいことがある。それは言語化可能なもので、映像はそれをできるだけ深いレベルで届けるための手段である。メッセージが誤解なく伝わることが重要なので、観客一人一人受け止め方が違っていい、などということは許されない。一方、片渕監督が『マイマイ新子と千年の魔法』や『この世界の片隅に』でやろうとしていることはその対極にある。言語化できるようなことは描かない。起きた出来事についての解説もしない。ヒロインすずさんの行動や考え方が正しいか間違っているかなどの評価も下さない。観客にはただすずさんの主観を共有体験させるだけだ。
 
思うに、「何が言いたいの?」と言語化可能な要約を作品に求める人や、「だから何なの?」と解説が必要な人にとっては、片渕監督のアプローチは不満が残るのではないだろうか。そのように考えると、想田監督の感じた気持ち悪さは「戦争を描く映画はこうあるべきだ」というご本人の信念とのずれから生じていて、片渕監督はそもそもそういう映画を撮っていないという根本的なところに相容れない理由があるように見える。これはもう、どちらが正しいという話ではなく、全く別なアプローチがあって、それぞれに必要とする観客も違うということではないだろうか。
 
ただ、ひとつ気になることがある。想田監督は、「たとえば憲兵とか、隣組とか、あんなにのほほんとしたものだったとは思えないです。」と書いているのだが、それは「間抜けな憲兵などおらず、のほほんとした隣組などなく、いずれも悪として描くべきだ」というかなり強い思い込みの上の意見のように見える。日本が正しく、最後の一人まで戦うのだと、疑問もなく信じていたすずさんのような人にとっては、憲兵も隣組もたぶんあんな風な理不尽さと滑稽を兼ね備えたものだっただろうし、戦後目線での「評価」など無縁だったはずだ。想田監督はどうしても戦後目線の「戦争は残酷で、無慈悲で、悲惨で、良くないものだったと評価すべき」という呪縛にとらわれているようで、そこはなかなか根深いものだと感じる。
【8/24@アーペ】今回、主に取り上げるのは、うすーく特徴を持った人【ロッカクイベント】
2017年 08月 10日 (木) 16:44 | 編集
長文注意!(書いているロッカク004高階はAS=自閉スペクトラム傾向を持っています。いったん話しだすと長いですw)
 
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LENZ高階はロッカクという合同会社(6社で構成)に参画していて、ロッカク主催の「ロッカク式ニュースクール」の3時間目を担当することになりました。詳しくはFacebookのイベントページを見ていただくとして、今回は畏友と呼びたいお二人、本田秀夫さんと手島将彦さんをゲスト講師に招いてイベントを開催します。
 
以下は、今回のイベントに関して思うところを綴る第一弾です。ライフワーク的に取り組みたいテーマでもあるので、ぜひご一読ください(FBのイベントページより転載)。
 
==========
 
本日ご紹介した本田先生のコラムでも「社会生活に何らかの支障を来している」という条件に当てはまらない、AS(自閉スペクトラム)の人がいることが指摘されていました。
 
同様なことはADHD(注意欠如・多動性障害)やLD(学習障害)についても言えるはずで、「その傾向はあるけれど、社会生活に何らかの支障を来しているというほどではない」という人は、もっとずっとたくさんいるはずです。
 
※これを書いている高階は医師ではないので、いままで本田先生との対話を踏まえた、イメージ的な理解で書いています。念のための注釈。←こういうのもクドいですね。
 
・「あいつは自分の話ばかりして空気が読めず自己中だ」なんて思われている人は自閉スペクトラムの傾向をうすーく持っているのかもしれません。
・「あいつはそそっかしくてだらしない。約束を守れない」なんて思われている人はADHDの傾向をうすーく持っているのかもしれません。
・「あいつは誰でもできて当たり前なことができないと言う。ふざけたやつだ」なんて思われている人はLDの傾向をうすーく持っているのかもしれません。
 
でもその人は同時に
・「専門的な領域で真似できないような高い集中力を発揮する」と一目置かれているかもしれませんし(AS)、
・「どうやったらそんなに次から次にいろんなことを思いつけるんだろう」と感心される発想の持ち主からもしれませんし(ADHD)、
・「(できてあたりまえのことができる)みんなとは一線を画したユニークなやつ」と称賛されているかもしれません(LD)。
 
誤解を招かないように付け加えると、この話は、何も「一目置かれたり感心されたり称賛されたりするからいい」という話ではありません。大事なのは、ネガティブに見えることもポジティブに見えることも同じ現象の裏表で、時と場合によっては歓迎されることもあるし鬱陶しがられることもある、ということです。
 
これらの特徴を持った人は、規律と協調性を重んじる世界にはなじみません。軍隊では落ちこぼれるし、体育会系の組織でもダメ人間の烙印を押されます。
 
一方で、学者とかIT業界とかクリエイティブの世界で、そこに妙な圧力がなければ、のびのびと活躍できる可能性があります。でもここ日本では、どの世界でも、なぜか妙な圧力が働きがちで、これらの人々が活躍する可能性の芽を摘んでいるのも事実です。
 
という話を読んで「あっ!」と思い当たる方は、今回のイベントをぞんぶんに楽しんでいただけると思います。
 
お申し込みはFacebookのイベントページで「参加予定」をクリックしていただければOKです。当日会場でご清算ください。随時情報をアップしますので「興味あり」でウォッチしていただけるのも嬉しいです。

●ロッカク式ニュースクール ”メディチの中庭” 三時間目
 本田秀夫・手島将彦の
「トップ・人事・教育担当必見!個性をいかす組織、つぶす組織の違い」
【朗読を哲学する3】必然性のあるヴォイスとは何か
2017年 07月 29日 (土) 14:31 | 編集
昨夜、MAREBITOでソロライブ「ものがたりの生まれるところ(SFP_live 3rd)」を開催。草加市で朗読のワークショップをやるようになってからは初めてで、出演者が3名もはるばる観にきてくれた。
 
以前にも書いた通り、ぼくのライブはいわゆる朗読というよりは、作品の作者自身が自分の書いたテキストでどこまで遊べるかを試すパフォーマンスだと思っているので、いろんなキャラクターも出すし、作品ごとにトーンもどんどん変える。その見本市的にやっている。
 
でも、昨日はちょっとだけ抑えた。そういう色物的なことをやるのは少数の作品に絞り込んで、ほかはできるだけプレーンにわかりやすく読むようにした。その結果、全作品で何かしら遊ぼうと試みたライブよりもしっくりくる部分もあった。余計なことをしないほうがいいものもあるのだ。
 
聞く側にとってどうだったかはまた別物で、アンケートでも「声色が少し多かったかな」というのもあったので、そのあたりの受け取り方はそれぞれである。
 
ぼくの中では、その作品があるヴォイスを要請している場合には、その人物の年齢性別口調をとりいれるのは「声色」だとは考えていないので、その認識の違いなのかもしれない。
 
その話をもう少し書こう。
 
語り手の声が、通常のその人の声から離れる場合には大きく分けて3通りあると思う。

1番目は、作品がそれを要請している場合。作品の中に具体的にどのような声かが記されていたり、あるいはどのような声であるべきかが絞り込まれる場合、できればそのようなヴォイスを採用するのは妥当だろう。
 
むろん、一切ニュアンスをつけないという方針はあってかまわないが、たとえばおっとりしたキャラクターをせかせか読んだり、せかせかしたキャラクターをのんびり読むのはテキストの要請に答えていないことになり、作品を損なうことになりかねない。そこにはヴォイスの必然性が感じられる。
 
2番目は、その声を使うことでしか表現できないことがある場合。テキストそのものの解釈の余地は多様だが、演出家または演者は「それをこのように伝えたい」という意思があって、それを伝えるためにはその声を要請する場合である。これは、テキストのものというよりも、「わたしはこのテキストをこう読んだ」という解釈を正確に提示するためのものだ。

原文のままだとその解釈を伝えられないわけだから、これもそのヴォイスを採用すべき必然性がある。

3番目は必然性のないもので、これが「声色を使いすぎ」と指摘される類のものだ。テキストも要請していない、その声を使ってはじめて表現できるほどの解釈の独自性もない、なのに何かしら声を作っているのは、根拠のなさにおいて弱い。むしろテキストの要請とも、解釈の意図とも関係ない分、「余分なこと」になっていたり、「誤読を誘発する」危険さえ考えられる。やめたほうがいい。悪しき声色である。

CDに吹き込んだときは、何しろ限られた時間で 115本を一気に収録することが目的だったので、できることを片っぱしからやってみた。第1回目、第2回目のライブまではその延長線上でやっていた部分も正直言ってある。その結果、3番目の悪しき声色を多く使っていたと思う。

その後、ワークショップのためにあれこれ考えるようになり、演者本人の声とは違うヴォイスが望ましいのはどういう場合で、それが望ましくないのはどういう場合なのかを探ったことが、上記の整理である。
【朗読を哲学する2】半年間のワークショップを前に(高階記)
2017年 07月 01日 (土) 22:58 | 編集
2017年7月2日。
草加市「歌のダンスのファンタジーIX」の朗読のワークショップが始まる。
初回は、自己紹介で時間が終わってしまいそうだけれど、どういう半年間になりそうか、できれば共有したい。そのことを書く。

もっとも、半年間かけて積み重ねていくことはあまりにも多いので、初回に何もかも話しても混乱するだけだ。だからできるだけシンプルに絞り込んで、しかも長持ちすることを伝えたい。ただ絞り込むためにも伝えたいことを思いつくままにだーっと総ざらえしておきたい。

書きながら考える。なにしろ「朗読を哲学する」のだ。思考を巡らし続ける奇跡を全部残してしまおう。

(1)よく聞くこと
これは朗読に限らず、俳優の演技全般に共通することなのだが、「よく聞く」ということはたぶん半年間言い続けることになるだろう。「声の出し方を教わりに来たのに聞くってどういうことだ?」と思う人も出てくるだろうけれど、これは基本だと考えている。ぼく自身がそんなに実践できていないので、この半年で自分自身の訓練の目標ともしたい。

わかりやすい例として、7月2日に聞いた声が、12月24日にどう変わっているか、これはポイントだ。だから、7月2日のみんなの声をとても大事に聞きたいと思う。


(2)自分の声から始めること
経験があって器用な人は声色を使ったり、テクニカルにいろいろなことができると思う。それはそれで大事な武器なのだが、せっかく半年もかけるので、今できることに止まってはもったいない。したがって、経験者のみなさんはいったん自分の得意技のことは忘れて振り出しから一歩ずつ新たな声を探して欲しい。

ビギナーはもちろん半年かけて今はまだ出せない声を見つけることになる。その際にも作り声や声色でそれっぽくするのではなく、今の自分の声を出発点に見つけていくようにしたい。毎回ほんのちょっとでも何かが変われば嬉しい。少し大きな声が出せた。小さくてもよく通る声が出せた。少し高い声が出せた、低い声が出せた。音がはっきりしてきた。わざともごもごできた。すごく早口でしゃべれた。スローでもしゃべれた。同じセリフにいろんな意味をつけられた。なんでもいい。前回はできなかったこと、思いつかなかったことが一つでも二つでも増えれば万々歳。半年後に振り返った時、7月2日の自分からは思いがけないくらいいろんなことができるようになったなと思えるといい。


(3)楽器としてのからだ
声を出す、というとどうしても「口のこと」「喉のこと」と思いがち。せいぜい「肺を使うこと」どまり。でも実際にはそれだけじゃない。立っているか座っているか、前のめりか踏ん反り返っているか、体を捻っているか、顔の向きはどうか、そして重心の位置はどうなっているか、気持ちはどうなっているかで出てくる声は全然違ってくる。全身を楽器だと考えるようにしたい。そしてその楽器は基本、けっこう調子っぱずれで調律が必要。楽器そのものの状態を良くすることも大事で、それは筋力や柔軟性の問題だったりする。調律に関して言うと、とにかくいろいろ試して使いこなして何ができるか、どうできるかを探り続けることでしか見つからない。半年間これをやり続けることになる。発見に次ぐ発見だといい。


(4)どう読むかは決まっていない
ストーリーがあって、キャラクターがいて、それに沿ったテキストがあって、作者がその場にいるので、どのことばをどう読むかについて、作者が書いた時点のイメージは当然ある。おおまかな方向は決まっている。けれどもこれがシナリオの面白いところだが、実は全く同じことばでもさまざまな意味をつけることができる。「ありがとう」の5文字で感謝を伝えるのは字義通りとして、愛も告白できるし、軽蔑の念を表すこともできる。失望や殺意だって込められるし、秘めた恋や別れの挨拶にもできる。音楽劇全体の中で採用されるかどうかは総監督次第だが、我々にはテキストを自由に遊ぶ権利があるし、そこから出てくる思いがけない発見を味わう楽しみがある。


というわけで、からだ=楽器を重視し、頭ではなく、からだでいろいろ試しながらテキストの解釈を深めるということをしたい。声に出すことの面白さ、からだという楽器から思いがけない声がどんどん出てくる喜び、そういったものを味わい尽くしていきたい。そしてそれはあれこれ試しながら繰り返し繰り返し極めて身体的に取り組むことの中で実現することになるはずだ。

半年が過ぎるころ、読解力、表現力、粘り強さ、自己主張する力と全体の中で調整する力が身についているはずだ。
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