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観客への信頼感。もしくは、タイムマシンに「つくり手の意見」は無用〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト⑥(たかしな記)
2017年 08月 26日 (土) 18:39 | 編集
(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします。文末に想田監督からのリプライを追記しました)

実に半年以上間があいたが、とても興味深い文章を読んだので、その周辺を少し考えてみたい。その文章とは想田和弘監督がFacebookに投稿したもので(日本時間:8月24日20時23分)、詳細はご本人の文章を読んでいただくとして、すごく乱暴に要約すると、「政治性の欠如が気持ち悪くて仕方なかった」ということに尽きる。そして「政治の産物であるはずの戦争から政治性を脱色してしまって、本当にいいのでしょうか。戦争をあたかも自然災害のごとく描いてしまって、本当にいいのでしょうか。」と問いかける。
 
裏返して言えば、想田監督は「戦争を描く以上は政治性を描かねばならない」と考えているということがわかる。政治性を描くとはどういうことだろうか。「自然災害のごとく描いてはいけない」と考えておられるわけで、つまり「憲兵や隣組のような監視手段を策定した者やその意図」や、「そこに疑問もなく従う者たちが引き起こす残酷な振る舞い」や、「呉という軍港への空襲や、民間人も標的にした米軍の作戦の意図」や、「それまで標的ではなかった広島に原爆を落とす判断をした者の存在やそこに至る背景」を描き、観客に伝えるべきだ、考えさせるべきだということだろうか。いわゆる社会派の作品の創り手にとっては、そこは外しちゃいけない部分なのだろうと推察される。

『この世界の片隅に』はタイトルが表しているように、徹頭徹尾「世界の片隅」の視点から描かれた作品だ。当時の政治や戦争を動かしていた(とされる)天皇の視点や、軍人の視点や、政治家の視点は一切出てこない。毎日の生活に精一杯の、権力とも財力とも無縁の、景気によって生活が左右される庶民の目線で描かれている。彼らが知り得ないことは出てこない。
 
庶民の視点でそれらの日々はどんな風だったのか、それをありありと体験するために徹底的に背景を描き出す。街並み、天候、衣食住をはじめとした暮らしぶり、戦況に応じての様々な変化、実際に発令された空襲警報の日時と解除までの時間、軍港に見えたものなどを可能な限り調べ上げ映像に定着する。その結果『この世界の片隅に』はタイムマシンとして機能する。当時実際に呉に暮らした人々が「あの通りだった」と感想をもらす正確さで。
 
そしてそこには「つくり手の意見・主観主張(想田監督のご指摘を反映)」は入れない。なぜならタイムマシンにそんなものは不要だからだ。観客は淡々とそこを訪れ、ある時間を過ごし、さまざまな出来事に直面し、そして帰ってくる。その体験を通して観客ひとりひとりが、自分の中で何らかの考えを見つけ出す。そこには、観客に対する圧倒的な信頼感がある。きちんと描けば必ず何かを感じ取ってもらえるという信頼感だ。

それは、言葉で説明するのではなく「体験を通じて感じ取るものこそ、観客の心の中に深く長くとどまり、個人の体験レベルで受け止められる」という考え方をベースにした方法論だ。その方法論においては、つくり手の決めつけや、誘導は余計なものでしかない。言語化可能なものは表層にしか届かない。
 
社会派作品のつくり手は、まず伝えたいことがある。それは言語化可能なもので、映像はそれをできるだけ深いレベルで届けるための手段である。メッセージが誤解なく伝わることが重要なので、観客一人一人受け止め方が違っていい、などということは許されない。一方、片渕監督が『マイマイ新子と千年の魔法』や『この世界の片隅に』でやろうとしていることはその対極にある。言語化できるようなことは描かない。起きた出来事についての解説もしない。ヒロインすずさんの行動や考え方が正しいか間違っているかなどの評価も下さない。観客にはただすずさんの主観を共有体験させるだけだ。
 
思うに、「何が言いたいの?」と言語化可能な要約を作品に求める人や、「だから何なの?」と解説が必要な人にとっては、片渕監督のアプローチは不満が残るのではないだろうか。そのように考えると、想田監督の感じた気持ち悪さは「戦争を描く映画はこうあるべきだ」というご本人の信念とのずれから生じていて、片渕監督はそもそもそういう映画を撮っていないという根本的なところに相容れない理由があるように見える。これはもう、どちらが正しいという話ではなく、全く別なアプローチがあって、それぞれに必要とする観客も違うということではないだろうか。
 
ただ、ひとつ気になることがある。想田監督は、「たとえば憲兵とか、隣組とか、あんなにのほほんとしたものだったとは思えないです。」と書いているのだが、それは「間抜けな憲兵などおらず、のほほんとした隣組などなく、いずれも悪として描くべきだ」というかなり強い思い込みの上の意見のように見える。日本が正しく、最後の一人まで戦うのだと、疑問もなく信じていたすずさんのような人にとっては、憲兵も隣組もたぶんあんな風な理不尽さと滑稽を兼ね備えたものだっただろうし、戦後目線での「評価」など無縁だったはずだ。想田監督はどうしても戦後目線の「戦争は残酷で、無慈悲で、悲惨で、良くないものだったと評価すべき」という呪縛にとらわれているようで、そこはなかなか根深いものだと感じる。
ハートに火をつけまくる件。〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト⑤(たかしな記)
2017年 01月 09日 (月) 10:56 | 編集
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(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)
 
最初に「あっ」と驚いたのは町山智浩氏がカブトムシが蜜をなめるシーンについて言及したのを読んだ時だった。人間が砂糖の配給やら闇市の値段やらで右往左往している時に、カブトムシは悠々と蜜を舐めている、と。そして昆虫が出てくる場面に注目しろ、と。2回目に劇場で見た時に昆虫たちが(わかりやすいアリのエピソードだけでなく)、いたるところに登場し、その場面で起きていることに対して様々な意図を持ったアクセントを添えていることを確認した。
 
それまで、昆虫が出てくる場面を昆虫に注目して観る、などということをしたことがなかったから、そういう「見方」に驚いたのである。なるほどなあ、ちょうちょやトンボも単なる田園風景を構成する要素じゃないんだ。いや、正確に言うと「単なる田園風景を構成する要素」が「その時も人間の社会の事情と並行してそこにあった」ということが、結果的に意味を持ってくるんだ。そう気づいて驚き、感心した。それを描いた監督にも、それに気づいた町山氏にも。
 
驚きはそれだけではなかった。次から次にカブトムシに匹敵する驚きが出現した。どういう順番でどういう風に驚いたかまでは忘れた。なので思いつくままにずらずら列挙する。
 
   *
 
最初の頃、応援をする気持ちはあるものの、まだそのための「ことば」が見つからず(つまり自分がなぜ「これはすごい体験だ!」と思ったのか、真価をまだつかみ損ねていた頃)、片渕須直監督のTwitterを追いかけ始めた。なぜなら『この世界の片隅に』という映画の中にどういう要素が入ってるのか、世界で最もよく把握しているのが監督本人だからだ。
 
その監督自身のコメントや、監督が「よくぞそこに言及してくれた」とリツイートすることや、場合によっては監督自身も「その視点は思いつかなかった」というポイントがそのTweetやリツイートを追うことで浮かび上がってくるだろうとぼくは考えたのだ。
 
まず目に付いたのは、「艦これ(艦隊これくしょん:戦艦を女性キャラクターに擬人化したゲーム・アニメ等のメディアミックス作品群)」や「ガルパン(ガールズ&パンツァー:戦車戦が大和撫子の嗜みという……自分でググってくださいな作品群)」のファンが食いついていることだった。もちろん「なぜだ?」とぼくは怪訝に思った。
 
彼らは戦艦や戦闘機などミリタリーなアイテムの描写を絶賛していた。「CGかと思ったら手書きであそこまで!」という具合に。それを読んでもぼくには具体的に何のことかさっぱりわからないのだが、とにかく戦艦や戦闘機に詳しい人たちが心を鷲掴みにされていることだけは理解できた。
 
すると、片渕監督がミリタリーなアイテムを描くことに長けているのは、過去にこれこれの作品を手がけているからだなどという解説が出てくる。あるいは戦闘機に詳しい人が「片渕監督は日本でもトップクラスの、戦闘機の塗装の研究家なのだ」みたいな話を始める。「へえ〜」「ほお〜」と感心するばかりである。
 
かと思うと、登場人物の名前が周期表に出てくる元素の名前にちなんでいるのではないかと指摘する人が出てくる(これについては、こうの史代さんが自らそのように説明しており、原作のファンの間ではよく知られたことらしい)。しかもその人は元素の特性を一つ一つ解説しながら、登場人物10数人のキャラクターと運命のようなものまで重ね合わせて解説してみせるのだ。驚嘆すべき内容だった。
 
そうかと思うと、服飾に詳しい人が、すずさんが身につけているものや、裁縫をしてつくるものについて解説をする。あるいはすずさんがつくる料理について解説をする。あるいは白いタンポポと黄色いタンポポのガクまで描き分けていることに言及する。あるいはポスターのすずさんの脇のバケツの中の「雑草」について、ひとつひとつ植物の名前を同定して「いまならおしゃれなカフェごはんの素材だ」なんてことを言う。以前に取り上げた「音響設計」についていかにすごいかを語る人も出てくる。アニメーションのテクニックとしてどんなことが行われているのか議論が始まる。
 
対空砲火の煙が色とりどりになる場面を、ぼくは「恐ろしいものなのに、それを美しいと感じてしまうすずさんの幻想」だと解釈していたのだが、Twitterのタイムラインを眺めていて、実際に、どの大砲の弾がどう着弾したか観測するために、爆煙に着色することが行われていたらしい。軍港の呉では複数の戦艦や、対空用の大砲があったため、あのように色とりどりになったのだという。
 
そういうことをさらっと、こともなげに解説してのける人が続々と登場してくる。ただもう驚きの連続である。
 
映画製作の裏話として、いまは失われた町を調べ上げて生き生きと描き出したことがよく語られる(いまは平和記念公園となっている一角に、冒頭のクリスマスに賑わう中島本町は実際にあって、目抜通りとして人々が集まって買い物をしていたのだ)。何度も広島・呉に足を運び、変わった風景や変わらない風景をロケハンしたこと。あるいは大和と武蔵が寄港していた日の天候を調べたこと、あるいは天井の板を外したタイミングなどの事実関係、あるいは楠公飯を実際につくって食べた話、とにかく徹底した調査の上で製作されたことが取り上げられる。
 
でもそういった「事実関係」だけでなく、ミリタリーなクラスタをうならせるディテール、昆虫をはじめ動植物に詳しいクラスタが驚喜する描き込み、服飾クラスタが分析したくなる描写、食のクラスタが食いつく素材やレシピなどが、非常にコアなレベルで表現されている。多種多様なクラスタが「ここまで描いている! これは自分にしかわからない。だからみんなに知らせなきゃ!」と反応するレベルで。『この世界の片隅に』について「語らずにいられない」思いにさせる要因の一つはここにもある。
 
先行して大ヒットした『シン・ゴジラ』も、政府内の会議、法律や手続き、自衛隊、軍事、生物学、防災、怪獣映画などさまざまなクラスタが反応したことが話題になったが、全く別なカテゴリではあるものの、『この世界の片隅に』においても幅広いクラスタが「この件は自分が言わねばみんな気付けないはずだ」と、ほとんど使命感に燃えて語り出す構図があったのだ。
 
すずさんと同世代の観客は見終わると同時に「あのままだった」「私の時はね」といつになく饒舌に語り始める。そして、監督のインタビューやティーチインに触れて、合唱しながら行進する女学生の運命、すずさんが自分自身に向けた怒りの爆発、割愛されたエピソードのキャラクターが一瞬だけ登場することなどを知ると、また劇場に足を運び確認したくなるし、確認すると語らずにいられなくなる。
 
そのようにして、驚くほど多岐に渡る人々が、それぞれの立場から「わたしにしかわからない、この映画の魅力」を語り始める。それはつまり「これは、わたしの映画だ」と感じているということなのだ。ぼくはそのことに圧倒される。「いい映画を見せてもらった」という他人事ではなく、「わたしの映画」として「わたしにしかできない説明」をしたくなるし、「わたしだけが気づいたであろう発見」について報告したくなるのだ。
 
長くなるので、今回はここまでにするが、もう一つ大事なのは、その全てを「すずさんが見聞きし、体験したこと」のレベルで描いているということだ。決して「軍部の戦略」や「戦況」や「当時の世界情勢」などは描かない。そんなものを描いてしまうと、とたんに「わたしの映画」ではなくなってしまうからだ。すずさんが体験し、見て聞いて考えたことが正しいか正しくないかなどということは全くどうでもいいことなのだ。別な主人公なら別な受け止め方をしただろうし、別な行動をとっただろう。肝心なのは、あのすずさんが、世界の片隅にいて、見て聞いて感じて考えたことと、ただ向き合うことなのだ。その結果、『この世界の片隅に』は非常に多くの人にとって「わたしの映画」になったのだ。でも、このことはまた項を改めて書くことにしよう。
 
【補足1】
ここに出てきた内容を知りたい人もいるだろうから、そのうち調べてこのブログにまとめて掲載する。どうぞお楽しみに。とりあえず、いますぐ見つかったものだけ貼っておく。
 
●町山智浩 『この世界の片隅に』徹底解説
 
●「この世界の片隅に」青葉が主人公!?

●「この世界の片隅に」の化学

●【映画の料理Vol.20】『この世界の片隅に』のすずさんの野草を使った工夫ご飯

●『この世界の片隅に』弾薬雑考その1(高角砲着色弾)
 
ほんとは、まだまだあるんですが、追い追い足していきます。

【補足2】
ここに書いたようなことを「1回では見切れなくらい情報量が多いからすごい」と言ってしまうこともできるのだけれど(そして、それは決して「間違い」ではないのだけれど)、そう言って片付けてしまうとずいぶん雑になってしまうのである。「『踊る大捜査線』は画面の中の情報量が多いから面白い」というのとは質的にも技術的にも別な話なのだ。
描くこと。描く人。〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト④(たかしな記)
2016年 12月 24日 (土) 11:00 | 編集
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(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)
 
すずさんの素晴らしい才能の象徴である右手については、すでにものすごく徹底的な分析があるので、ぼくはそこには踏み込まない。下記のブログをご参照ください。「映画の本当の主人公は誰か」という刺激的な解釈で、とても読み応えがあります。
 
●『この世界の片隅に』と、「右手」が持つ魔法の力
 
ここでは「描くこと。描く人。」というテーマで考えたいと思う。ぐっと個人的な関心事に引きつけて言うなら、自閉症スペクトラム的な傾向を持った一点集中型の主人公について考えてみたい。
 
例えばすずさんは子どもの頃から絵を描くことが好きだ。絵を描くことが好き、というレベルではなさそうなことは、あの鉛筆のちびり具合からもわかる。ぼーっとしていると周りからは思われているが、彼女が描く漫画を見れば、少なくとも絵を描くことに関しては非常に高い集中力の持ち主であることは明らかだ。観察力があり、物語を構想する力があり、没頭して描き続け描き上げる力がある。
 
ではすずさんがとても器用かというと、裁縫をやらせると「そんなことじゃ嫁に行けん」と叱られるほど下手だ。好きなことにはとことんのめり込むが、やり方は自己流だ。着物の縫い目を解きもせずばっさり切ってしまう。食べられる植物を覚えて集めてきて自己流にアレンジして調理する様はほとんど創作料理だ。
 
そしてすずさんには皮肉が通じない。「あんた広島へ帰ったら?」と言われて文字通りの意味にとって、径子を呆れさせる。そして嬉々として帰省する。でも本人も気づかないうちにストレスを抱え込んでいるのはハゲが示している。極めて自閉症スペクトラム的だ。
 
要するに、部分的には、はたから見ても驚くほどの集中力や、場合によっては才能の輝きを見せるけれど、生きていく上ではあまり器用とはいえない。むしろ「ぼーっとしている」「何を考えているかわからない」「人の話を聞いていない」「周りからどう見られているかわかっていない」「空気が読めない」というタイプの人間だ。ひどく乱暴な決めつけ方をすれば「描くこと以外、能がない」と評されかねない人間だ。
 
こう書くと、高階はすずさんの悪口を書いていると考える人がいるかもしれない。とんでもない。上のパラグラフだけでぼくはもうすずさんにメロメロになってしまう。なぜなら、漢字こそ違うが、ぼくもまた「書くこと以外、能がない」人間だからだ。そして知りあいでもないけれど言わせていただくと、片渕須直監督も、こうの史代さんも、それから主演を務めたのん(本名・能年玲奈)さんも、恐らく同じカテゴリに属しておられるように(勝手に)感じている。
 
そう。『この世界の片隅に』は、「それ以外、能がない」タイプの人を中心に据えた物語なのだ。「生きづらさをかかえるアーティストの話」とこじつけたくもなるが、すずさんは自分で自分のことをアーティストとは思っていないし、周りからもそうは思われていない。ひょっとすると金賞をもらった水原さんはちょっとそんな目で見ていたかもしれないが。その水原さんも「すずは普通だ」という。だからこれはやはり「描くこと以外、能がない普通の若い女性」の話なのだ。
 
「描く」というのは文字通り鉛筆や筆を手にして、紙にかき付けることだけではない。冒頭船の中で「これからお兄ちゃんやすみちゃんに何を買って帰ろうか」と思い描くとき、すずさんは両手の人差し指を中に漂わせ交錯させながら考え事をする。径子さんに言われて服を仕立てる前にも同じ仕草をする。イマジネーションを働かせ、何かを構想するとき、すずさんは「描く人」になる。
 
再びこじつければ、それは原作者・こうの史代さん自身の分身に違いない。すずさんというキャラクターのあの実在感を考えると、これはほぼ間違いないと想う。そしてそれを一読してとても大切な作品だと受け止めた片渕監督も、誘いを受けて作品に触れて「ぜひやりたいです」と言ったのん(本名・能年玲奈)さんもまた、そこに自分の姿を見つけたのだと思う。
 
そう考えると、この映画に数多くのアニメーターやマンガ家・イラストレーターはもちろんのこと、ミュージシャンや作家などのアーティストがはまり、一斉に声をあげている理由が見えてくる。「絵を描くことしか、能がない」「曲を書くことしか、能がない」「楽器を演奏することしか、能がない」「文章を書くことしか、能がない」と周りから見られ、たまに尊敬されることもあるが、日常生活ではポンコツ扱いされ、でも「そうすることしかできない」から、「誰がなんと言おうとそうしていたい」から、ずっとそうやってきた人たちの心をとらえるのだ。
 
これは、何かの世界のマニア、おたく、研究者にも通じる。『この世界の片隅に』への人々のコメントの中で、とりわけぼくの心をくすぐったのはあらゆるジャンルのマニアたちが一斉に反応したことだ。この話はこの話で1回使いたいので、ここではさらっと流すが、彼らもまた同じカテゴリに属する同類なのである。
 
「そうすることしか、能がない」人々は、愛情を持って描かれた自分の分身を愛おしく見つめることになる。そして時限装置のついたあの忌まわしい爆弾のせいですずさんが右腕を失ったとき、そのあまりの残酷さに心の底まで凍りつくことになる。それは、絶対に起きてはいけないことだからだ。そんなひどい仕打ちはないからだ。しかもすずさんは晴美さんを死なせてしまったという罪悪感のもと、自分の右腕の喪失を悼むことすら許されない。まるで「当然の罰」のように受け入れざるを得ない。受け入れたくなどないのに。
 
あの展開の持つ意味は、ひょっとすると「そうすることしか、能がない」人と、器用に生きられる人の間でかなり違って見えるのではないかと思う。これは推測なので、わからないけれど、「そうすることしか、能がない」人にとって、右手を失うことは、生きる原動力を根こそぎ奪われたことを意味するのだ。その感覚は、たぶんわかってもらうのは難しいと思う。以下、そのわかりにくい話を続ける。
 
生きていく唯一無二の手がかりを奪われ、相手が自分を必要としている以上に必要な存在だった晴美さんを死なせてしまい(すずさんが殺したわけではなけれど、そう考えずにはいられない)、その母親と暮らす家の中に居場所はなく、家事どころか自分の服さえ着られない嫁に居場所はなく、晴美さんのいなくなった世界に居場所はなく、手をつないだり絵を描いたり薪を割ったりした右手のない世界に居場所などほしくもなく、だから周囲の人々の口から何気なく発せられる「良かった」ということばを、すずさんは受け入れることができない。良いことなんて一つもないから。
 
だから2つ目のエンドロールで右手が登場したとき「それはずるいよ」とぼくらは思う。だって右手は決して帰ってこないのだから。右手が出てきて絵を描くなんて、そんなの安直なファンタジーじゃないかと思うのだ。けれどそうではないことがわかる。右手は描く。リンさんの人生を。すずさんが知ることのないまま終わったリンさんの人生を。これはつまり「すずさんの見たものだけを描いた本編」とは別な、「描くこと」の意思表明なのだ。失われたものが描く失われた世界の失われた人たち。
 
右手は失われても「思い描く力」はまだある。映画の終盤、すみの傍ですずは「手がありゃ鬼イチャンの冒険記でも描いてあげられるのにね」と言う。そして鬼イチャンは南洋で生き延びて、幼少時代に見た人さらいの「バケモン」として復活し永遠の命を得ることになる。「描くこと」ができなくなっても、すずさんの「思い描く力」はものがたりをつむぎはじめる。それを60年も経て、一人の女性のマンガ家が受け止めてマンガにする。それを、さらに一人の映画監督が受け止めてアニメーションにする。そういう壮大なものがたり、「描くこと。描く人。」の大河ドラマを感じ取って、「そうすることしか、能がない」人々は勇気を受け取るのである。
音の風景。映画館で観るべき理由。〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト③(たかしな記)
2016年 12月 23日 (金) 18:22 | 編集
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(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)
 
一般にアニメーションというと、平面に二次元の絵を描いて、少しずつポーズに変化をつけて大量な絵をパラパラマンガ的に処理して「動いて見える」ようにすることだと思われていると思うし、その理解が間違っているわけでもないだろう。
 
少し言葉を聞きかじっている人ならば、「animate」という単語には「生命を吹き込む」という意味があることを知っている人もいるだろう。そんな人は、AIでつくったゾンビのような動きをする人体の動画を見せられて激怒する高名なアニメーターの発言に「よくぞ言った。あそこには生命への尊厳がない!」なんて拍手を送ったりする(つくったのはAIだし、動いているのはゾンビだから、当たり前のことを言っているだけなんだけどね)。
 
閑話休題(そんなことはさておき)。
 
パラパラマンガにしても、animateにしても、いずれも視覚、ビジュアルの話をしている。でも一枚の静止画に命を吹き込む方法は視覚情報だけではない。サウンドトラックの出現以降、音もまた命を吹き込む役を担うようになった。
 
それはそうだ。画面で誰かに口をパクパクさせておいて、黒背景に白抜き文字で「火事だ!」と表現するよりも、画面にしゃべっている人は写っていなくても緊迫した声で「火事だ!」と聞こえた方がより臨場感が増すというものだ。誰にだってわかる話だ。
 
でも多くの人はアニメーションというと、ついついビジュアルな話のことを思い浮かべてしまうのだ。
 
『この世界の片隅に』を見た人ならわかるように、片渕須直監督は優れて視覚的な表現者だ。徹底した調査の話はよく聞くが、徹底した取材までなら、まだ途上に過ぎない。その取材を元にして、作品にふさわしい取捨選択を行いながら「すずさんが本当に生きている背景の世界」を作り上げたわけだ。調査も凄いが視覚表現による世界の再構築こそが凄い。
 
同じ建物だって竣工直後と、何年も経ってからでは違って見える。すずさんがその傍を通り過ぎた時のその建物はどのくらい新しく、どのくらい古びているのかを資料に基づいて定め、色や質感を決め風景の中に落とし込んで行く。橋も同じ。川や山や海は当時どうだったのか。町の遠景はどう見えたはずなのか。人々はどのような服を着て、どのように佇んでいたのか。
 
設定画の話だけではない。白波がウサギの跳ねる姿に見える海、色とりどりの対空砲火に染め上げられる空に叩きつけられる絵筆、爆発事故後の実験映画的なシーケンスに始まって続くすずさんの心象風景の世界は、アニメーションだからこそ可能なビジュアル表現の可能性を繰り出して、目を楽しませ魂を深くえぐる。よく出てくる「ショートレンジの仮現運動」にしても上記の実験映画的なシーケンスも「視覚表現の人」としての面目躍如だ。
 
でも、ここで書きたいのは「音」の話だ。つい監督の視覚表現に我々の目は奪われてしまう(文字通り、「目」が奪われてしまう)。けれど片渕監督の凄みは、それだけでなくとてつもなく「いい耳」を持っていることではないか、ということをここでは書きたい。
 
   *   *   *
 
呉の町についに敵機の姿が現れたシーンで、明らかに何かが変わる。そこで極めて重要な役割を果たしているのが「音」だ。監督はインタビューで、自衛隊の演習場で実際の音を録音したこと、その生々しさに戦慄したこと、それをあの「ぼーっとした」すずさんが体験したことに想いを馳せ、彼女がどれだけ恐怖心を味わっただろうかと考えたと語っている。
 
映画を観ながら、そのシーンまでの間にぼくらが体験しているのは、田舎ののどかな音の風景だ。家にいれば家族の声が聞こえ、包丁を使う音、かまどの火の音、ふつふつ炊ける音、水を運ぶ音、薪を割る音が耳に入る。季節ごとに鳥のさえずりや、虫の声も聞こえる。少々大きめの音であっても、いずれも穏やかにくつろげる親しみのある音ばかりだ。ちょうちょがひらひら飛んでいるような、のどかな田舎の音世界だ。その上に突如全く異質な音量と質感の砲撃音、爆撃音、機銃掃射音が切り込んできて、ぼくらの身をすくませる。耳だけでなく、皮膚や腹の底までの振動として轟く音。
 
すずさんが聞いた通りの音量で、すずさんが体験した通りの唐突さで、一瞬何が起きたのかわからないくらい鋭く、音の塊が切り込んでくる。それまで味わったことのない音なので、それが恐いことなのかどうかも正確にはわからない。一種の思考停止をもたらす。そういう音の風景が突如割り込んでくる。それ以降、来る日も来る日も「警報、もう飽きたあ」と言いたくなるほど続き、それまでの世界を完全に変えてしまう。
 
世界の片隅で生きる、歴史上には名前の残らないごく普通の人の日常の中に、戦争は突如割り込んできて、その世界を決定的に変えていくということ、すずさんの味わった世界の変化を、音を通して観客に体験させているのだ。ストーリー展開で見せるだけではなく、聴覚体験として、抗いようのない巨大な力を持つ災厄が日常を破壊する様を体験させているのだ。
 
なぜそんなことをするのか? 目的ははっきりしている。そのような出来事は何も遠い70年前の軍港の町だけの出来事ではないからだ。2016年7月の南スーダンの首都ジュバでも、2016年11月のシリアのアレッポでも、2016年12月のベルリンのクリスマス市でも、いままさに起きているからだ。ジュバの人たちもアレッポの人たちもベルリンの人たちも、そうなるまではまさか自分たちがそんな目にあうとは考えていなかっただろう。
 
2016年12月、ぼくらは自分の住んでいる町でそんなことが起きるとは考えていない。でもすずさんだって、裏の段々畑で警報もなしに空襲に遭遇したり、家のすぐ近くで自分が機銃掃射されるなんて考えていなかったろう。「遠い、特殊な時代の、かわいそうな女の子」の話ではなく、ぼくらの時代と地続きだ、ということを、音でも表現しているのだ。
 
もちろん、それだけではない。監督は前作で起用したコトリンゴの歌声(それはどことなくすずさんの声のようにも聞こえる)、楽曲や曲調、最後のピースとして追い求め続けたのん(本名・能年玲奈)の声、などへのこだわりにも「耳の良さ」が光っている。
 
クレジットに「音響監督:片渕須直」とあることに、多くの人は気づかないだろうけれど、画面の中に何を登場させ何を登場させないか、視覚表現者である監督が隅々まで目を光らせているのと同様に、『この世界の片隅に』において、どの場面で何の音が聞こえ、どのように聞こえるべきなのかを隅々まで耳をすませて設計しているということを意味しているのだ。
 
耳だけでなく、全身で味わう音なので、これはヘッドホンではダメだし、よほどの設備があれば別だが、一般的な自宅の音響設備では絶対に味わえない。だから映画館で体験するしかないのである。
 
【補足】
ぼくなりに長々と書きましたが、音に詳しい人が11/18に書いたブログを発見したのでひれ伏してご紹介します。
●「その音景の片隅に」(『この世界の片隅に』感想文)
強大な力(激甚災害)の前に〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト②(たかしな記)
2016年 12月 16日 (金) 10:38 | 編集
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(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)

とても強大な、抗いようのない理不尽な力が猛威を振るうことが時にあって、それは1000年に1度の大津波かもしれないし、経済効率優先主義が招いた“想定外”の原発事故かもしれないし、巨大不明生物による首都の破壊かもしれないし、隕石落下による大量死かもしれないし、ある日突如空を埋め尽くす機影と爆弾と銃撃かもしれない。
 
『この世界の片隅に』を語ることばを、それも他の人がまだ言っていない形で語ることばを、ぼくはようやく見つけることができた。それは、言うならば「強大な力がわたしの人生に決定的なダメージを与えた後、わたしはどう生きるか」ということについての映画だったのだ。
 
「『この世界の片隅に』は戦争映画でも、反戦映画でもない」ということばをよく目にして、ぼくもその気分はとてもよくわかるのだが、でもやっぱり戦争映画でもあり反戦映画でもあるとも思う。「軍人や兵器や戦略やドンパチのあるいわゆる戦争映画」や「銃後の困窮や爆撃の惨状を描くいわゆる反戦映画」でないことは確かだが、戦争が背景にあり、これを見て戦争肯定にならないという意味では戦争映画、反戦映画と言っていい。
 
でもぼくが「すごい」と思ったポイントはそこにはない。むしろ(これは防災コピーライターとしての職業病的な部分かもしれないが)、あの空襲が始まった瞬間の感覚、何が始まったのか、それは恐ろしいことなのか美しいことなのかさえわからなくなるあの感覚が、日常に不意に切り込んでくる抗いようのない大きな力という意味で、激甚災害を(天災も人災も戦災も同じ)思わせたのだ。
 
覚悟していようといまいと、それはある日やってくる。それも、事前に警報が鳴らずに思いがけないタイミングでやってくることもある。そしてそれまでの生活が続けられなくなる。家を失ったり、家族を失ったりする人もいる。すずは可愛がっていた、そして唯一の親友でさえあった姪を失った。端から見るとぼーっとして常識に欠け注意力散漫なグズのように見えるヒロインの人生を陰ながら支え続けてきた右手を、秘められた才能の象徴でもある右手を失った。
 
ある意味ですずの人生はあの時終わってしまった。「終わってしまった」は言い過ぎだとしても、それまですずの人生の重要だった部分が、一瞬にして失われ、そしてもう二度と取り戻すことができなくなってしまった。世界中の善意のパワーを結集して空襲をなくすような展開はありえないし、パラレルワールドに行って晴美さんや右腕が無事に戻ってきたりすることは決してない。
 
死んだ晴美は戻ってこない。すずさんの心の中ではいろいろな形で晴美の姿が蘇り、その声さえ聞こえるけれどそれは空想にすぎない。そして空想こそが最大の才能だったすずさんにとって、空想は空想にすぎず晴美さんが戻らないという事実はほとんど全人的に存在を否定されたにも等しい。すずさんの空想を目に見える形にして人に伝えることができた右手も、もうそこにはない。そのようにして何かが決定的に失われ、もう取り戻せないということは、現実世界でもいたるところで起きている。そこには奇跡はない。
 
ボーイ・ミーツ・ガールの魔法も、ネット民の力の結集も、パラレルワールドもない。
 
でも、残された人は息をして、食べて、排泄して、立ち上がり、仕事をして、時には涙し、時には声を荒げ、時には笑い、時には許しあって、生きていくのだ。少し前までは確実に存在した「苦しいながらもほのぼのとして笑顔のある生活」はすぐには戻らないかもしれない。それでも残された人は、残された身体は、生きて、生きて、生き続けるのだ。
 
これは、そういう映画だった。
 
あらすじを言葉にしてしまうと実になんてことのない話になってしまう。だから見終わった直後には、自分が一体何に感動をし、揺さぶられたのかがわからなかった。とりたてて戦争反対というわけでもない。苦しいはずの困窮生活だって楽しげにすら描かれていた。人類最初の原爆投下は、義姉との和解というホームドラマ的なクライマックスに被せられ、一瞬何をどう受け止めていいのかわからない描き方をする(そして呉では人々はきっと、まさにそんな風にあの閃光と空震を体験したであろうと、目からウロコが落ちるような思いとともに体験することになる)。
 
どちらかというとこの作品では感動する瞬間をぶちこわし、クライマックスをつくらないようにする。「良さげな音楽が流れて、主人公や仲間たちが心を合わせて一所懸命何かをやって素晴らしい解決が訪れる」なんていう瞬間は一切描かない。片渕監督はそういう意味でのファンタジーは排除した。だって、そんな奇跡は現実には起こらないから。晴美さんが戻ってこないように、右腕が取り戻せないように。
 
晴美さんが死に、右手・右腕が失われ、心の友は町ごと焼き払われ、スケッチをした懐かしい町はまるごと消えてしまい、家族の何人かは遺体も見つからず、妹は原爆症にかかっている。2度と以前のようには戻らない現実。それでも彼らは生きていく。いったんは幸福や自信や誇りや生きる意味を失って、人生が終わったと言ってもいい状態だったすずさんも生きていく。戦災孤児を引き取って(すずさんたちは知らないけれど、その母も右腕を失っていた)、その子と、晴美さんの母である径子と、すずさんと、3人でおそろいの柄の服を着るような日がいつかやってくる。
 
これはそういう映画なのだ。わたしたちは天災や、人災や、戦災を逃れられないかもしれない。何かが決定的に失われ、損なわれ、人生は終わったも同然になるかもしれない。それでも生きていく。そしていつか、あの3人のようにささやかな喜びを取り戻す。これはそういう映画だからすごいのだ、と今のぼくにはわかる。
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