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クリエイティブ・ユニットLENZのblogです。
LENZ
【朗読をテツガクする1801/一人カラオケの罠】
2018年 08月 14日 (火) 10:00 | 編集
今年も草加市での朗読のワークショップが始まった(歌とダンスのファンタジーX。2019年1月27日本番)。去年もそうだったけれど、この期間、朗読について、あるいは身体を使って表現することについてあれこれ考える。なので2018年のシリーズの第1回ということで1801と題して書く。今後1802、1803と増えるが1899までいくことはあるまい。
 
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今日は「一人カラオケ」というキーワードで書く。
 
一人カラオケは、カラオケボックスに一人で入って歌うことだ。目的はいろいろで、ぱっと思いつくだけで、順番待ちなしで次から次へと時間内ノンストップで歌い続けたい人、他人の目を気にせず大声を出してストレスを発散したい人、次に人前で聞かせる課題曲をマスターするため自主練したい人などがいる。
 
目的を別にすると、共通点は聞き手がいないことがあげられる。リアルタイムでその歌声を聴いて反応する人がいない。その結果、聞き手の反応も存在しないし、聞き手の反応を感じて歌い方に影響が出るということもない。一人カラオケは自己完結が特徴なのだ。
 
朗読ワークショップについて言うと、参加する人の意識はそれぞれで、人前に立って何か演じたりするのが好きという人もいれば、声に出して読み聞かせるという行為が好きという人もいる。澱みなくスラスラと適度な抑揚をつけてはっきりと聞き取りやすい声で喋れるようになりたいという動機の人もいるだろう。
 
「澱みなくスラスラと適度な抑揚をつけてはっきりと聞き取りやすい声で喋れるようになる」ということは、朗読をする上でとても大事なことでもあるけれど、これは手段であって目的ではない。「澱みなくスラスラと適度な抑揚をつけてはっきりと聞き取りやすい声で喋る」ところまでで止まってしまうと「一人カラオケ」になってしまう。
 
決して、一人カラオケがいけない、と言うつもりはない。歌と同様、聞き手がいようがいまいが、とにかく声に出して読むことが好きという人や、大きな声でがんがん読み飛ばすことがストレス発散になるという人がいてもいいと思う。でもそれは「歌とダンスのファンタジー(略称:歌ダン)」というプロジェクトが求めることではない。
 
「澱みなくスラスラと適度な抑揚をつけてはっきりと聞き取りやすい声で喋る」ことができるようになったら、その先には共演者と一緒に場面をつくるというプロセスがあるし、衣装を身につけ舞台美術の空間に身を置き、立ち位置やマイクの使い方も覚えて、照明を浴びて音楽や音響効果ときっかけを合わせるというようなプロセスもあるが、それもこれも全部目的ではなく手段だ。
 
目的は、本番を観に来る1000人近い観客にものがたりを届け、ただ単にすじがきを理解させるだけではなく、笑ったりほろりとしたり、ドキドキハラハラしたり、ほっこりなごんだり、印象に残るひとことを持ち帰ったり、要するに、実際にそこにいる人の心や体に何らかの反応を引き起こすことなのだ。願うらくは演出家が意図したとおりの反応を。そうでなければ演出家が意図した以上の反応を。
 
ここに書いた「目的」は、朗読に限らず、演劇でも、演奏でも、ダンスでも共通のことだが、つまり言いたいのは「一人カラオケではない」ということだ。理由はよくわからないが人はしばしば「一人カラオケの罠」的な方向に踏み込んでしまいがちだ。
 
それはたぶん、ワークショップの課題が個人のスキルを磨く方向に特化しているように受け取られがちだからだろう。そこは場を提供する側の責任が大きい。場をファシリテートする側が、その「罠」について十分に配慮して「誰かの心や体を動かすためにやっている」ということを忘れないようなメニューをつくる必要がある。単純に言えば「他の人が朗読しているときは聞き手になる」という場をつくることなのだが。
 
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書いているうちにいろいろ書きたいことが出てきた。昨年書いたこととも重複するだろうが、頭の整理を兼ねて続けて書こう。昨年の初日から言い続けている「3つの基本」のことや、その3つそれぞれに関する詳細な解説なども。
【テツガクしようぜ】⑥「こどもをまもる」のココロ(高階記)
2018年 06月 13日 (水) 13:44 | 編集

こどもをまもるのココロ のコピー
ソーシャルアクションラボ(https://socialaction.mainichi.jp)は、文字通り社会課題ならなんでも扱うラボ(研究所)だと考えている。当然のことながら最初に提案した時点では「防災」を是非入れたいと考えていた。あとその企画をしていた時点では北朝鮮のミサイルがホットな話題だったので、「戦争」も解決の対象だった(ほんの9ヶ月ほどで何という変化!)。「難病」というのも案として出ていた。侃々諤々の議論を経てたどりついたのが「こどもをまもる」だった。
 
これには、個人的に思い入れがある。そのことを書く。
 
文字面だけ眺めると「こどもをまもる」というのは、守られる子どもと、そういう子どもを持つ親にしか関係ないことのように見えてしまう。でも本当はそんな狭い話ではない。未来に向けて社会を根底からごろっと変えてしまうマジックワードなのだ。
 
(1)「こどもをまもる」が実現した未来からの逆算
「こどもをまもる」ということが達成された未来のことを想像してみよう。そこでは子どもたちは殺されないし、身体的にも、精神的にも、性的にも虐待されないし、いじめられることもない。天災でも人災でも戦災でも死んだり傷ついたりすることがない。貧困で学習や挑戦のチャンスを奪われることもないし、性別や外見や信仰や性同一性や心身の障碍や発達の特徴によって差別されることもない。
 
そういう状態を実現するためには何が必要かを考えると、大人たちがそのような社会を実現し、子どもたちにその価値をおすそわけしているということだ。
 
その社会では、大人たちもまた、身体的にも、精神的にも、性的にも虐待されないし、いじめられることもない。それは、ありとあらゆるハラスメントが起こらない社会だということを意味する。
 
その社会では、大人たちもまた、天災でも人災でも戦災でも死んだり傷ついたりすることもない。それは、天災への備えがハードウェアでもソフトウェアでもヒューマンウェアでも徹底しているということを意味する。
 
その社会では、貧困で学習や挑戦のチャンスを奪われることもない。本人が望めばいくらでも知識や技術を身につけていくことができるし、本人がそうしたいと思ったら未解決の課題に取り組んで解決していることができる体制があることを意味する。
 
その社会では、性別や外見や信仰や言語や思想や嗜好や性同一性や心身の障碍や発達の特徴によって差別されることもない。それは多様であることは当たり前の前提であって数や力が優勢なものに無理に合わせる必要がないということを意味する。
 
で、そういう社会であって困る人はいますか? いませんよね? だったら今すぐ実現しようよ、ということなのだけれど、2018年6月13日現在と、その未来社会の間には、残念ながら大きな隔たりがある。これは現実。そこで今度は未来に向けて考える。
 
(2)未来に向けて「こどもをまもる」
今、ここから始められることは何か。「こどもをまもる」ためにできることは何か。どこから手をつければいいのか。上に書いたような未来と現実との間にはあまりにも大きなギャップがあるので、ついつい無力感を覚えてしまうほどだ。でも、これまでも人類の歴史がそうだったように、社会全体の価値観は変えられるものだし、社会のシステムだって変えられるものだ。ぼくらはそっちに向けて進むと腹を決めて、進むのみだ。
 
ここで残念なお知らせが一つ。

大人はすぐには変われない。いま平気で無自覚にハラスメントを行う大人や、災害に対して他人事の大人や、人災や戦災の原因をつくってる大人や、経済格差で他人を支配する大人や、人にランク付けをして差別をするような大人は変わるのが非常に難しい。彼らは、未来に向けて滅んでいく運命にあり、たとえ生き延びたとしても哀れな存在として扱われるような人々だが、今現在は強者として振舞っていて、その立場にしがみつく。だから今すぐはいなくならない。出回ってしまった古いOSは出来が悪くてもなかなかなくなってくれないのだ。
 
だとすれば、できるのは、未来社会の担い手となる子どもたちに向けて、その社会にふさわしい大人に育つような環境を確保することだ。上に書いたような未来を信じる大人たちが、「未来人の卵」を大事に育て、ハラスメントや権力欲や差別に身を堕とさないように導くことだ。
 
もしもどこかの学びの場で(あえて「学校」とは言わない)それを実現できたなら、子どもを持つ保護者はそこに通わせたいと考えるだろう。もしもどこかの街でそれを実現できたなら子育てをする家族はその街に集まってくるだろう。そして子どもたちを通じて、その保護者たちの価値観に変化が起きることも期待したい。古いOSから新しいOSへとインストールされ直すのだ。
 
もしもどこかの自治体が「世界一こどもをまもる!まち宣言」をして、説得力のある制度の改良を進め、実績を上げることができたら、まずそこに人々が流入するようになり、それがモデルとして確立されれば、同様な仕組みを導入する自治体が増えていくだろう。そのような自治体がどんどん増えていけば、やがては日本という国全体にその価値観が広まることを期待したい。
 
最初は確かに、守られる子どもと、そういう子どもを持つ親だけが当事者に見える。でも、その段階ですでに「こどもをまもる」が実現した未来を志向する大人たちが何人もいて、その状態を支えていることを忘れてはいけない。やがてその実践は人々の関心を惹きつけ、より多くの子どもとその家族を引き寄せ、人々が集まるようになってくる。さらには、その評判を受けて方々で同じような取り組みが行われるようになり、その結果、同じ未来を志向する人々の数が指数関数的に増えていくことになる。「こどもをまもる」に取り組めば、「人々を引き寄せ集める」ことにつながり、そのまま「理想的な未来を作る」ことへと流れ込んでいく。
 
昨年の秋、ぼくはそんなことを一所懸命考えていた。1ミリ、世界をいい方へ動かす第一歩として、これほど適したテーマはないだろう、と。
 
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余談だが、内田善美という漫画家がいて(どのくらいの知名度があるのかわからない。ご存知ですか?)、ある作品中に「子どもは未来からやってきた客人だ。だから大切にもてなして未来に返さなければならない」というような趣旨のフレーズが出てきた。読んだのはもう30年以上前のことだが、この言葉がずっと残っている。たぶんぼく自身が子育てをしていたとき考えていたことの背景にもこの言葉があったと思っている。いまは「未来人」たちに誇れる世界だろうか? そうでないならば、何をどう変えていくべきだろう?
【テツガクしようぜ】⑤満1カ月のソーシャルアクションラボについて、とことん語る (高階記)
2018年 05月 15日 (火) 13:55 | 編集
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ソーシャルアクションラボ(social action lab)のオープンが4月16日。今日で丸1カ月、明日から2カ月目、ということになる。毎日新聞の記者さんたちが短期間に良記事をどんどん仕上げてアップして大変読み応えのあるサイトが出現した。インタビュー記事だけで、芥川賞作家の諏訪哲史さん、尾木ママこと尾木直樹さん(なんと全3回)、作家・辻村深月さん(本屋大賞のタイミングで!)、社会学者・内藤朝雄さん、寄稿では池上彰さん、評論家の荻上チキさん、いじめなどを扱うNPOの代表の小森美登里さん、精神科医・斎藤環さん、ラジオDJ山本シュウさんと錚々たる顔ぶれ。
 
著名人が並べばいいってものではなく、現役の教師、さいたま市の元教育長、そしていままさに子どもを学校に通わせている保護者、さらには毎日小学生新聞に寄せられた子どもたちのメッセージなど、「いじめが発生している・するかもしれない現場」のことばもずらりと並んでいる。従来メディアでいじめは「自殺」などの重大問題が起きた時にしか取り上げられず、事件でも事故でもない学校の空気感が伝わってくることがなかった。この「いままさにそこで日々過ごす人たち」の声というのがすごく貴重だということを感じている。
 
そして国内外でのさまざまな取り組みの事例も増えてきている。
 
ここで、ソーシャルアクションラボはそろそろ本来の目的に向けて動き出さねばならないと感じている。ソーシャルアクションラボでは当初から「実際にアクションが起きる」ということを最も重視して企画を進めてきた。読んで「ああ、いい記事だった。参考になった」というのも悪くはないのだけれど、そこで終わってしまうと世界は少しも変わらない。誰かがアクションを起こさなければ世界は記事を読む前と同じままだ。
 
そのアクションは派手なものである必要はない。ごくごく小さなものでいい。でも同じ方向を向く人が何かのアクションを起こせば、それはだんだん目に見えるものになり、世の中からも無視できない動きになり、やがては(たった1ミリでかまわないから)世界を動かすはず。それが出発点にある。
 
いじめを止めるためにスクールカウンセラーになるとか、いじめ相談をうけつけるNPOで働き始めるとか、いい活動をしている団体に寄付をするとか、そういう時間とお金と労力と知恵を全部投入するようなアクションも尊いけれど、それができるのはごく一握りの人でしかない。でもたとえば「いじめ」という問題を考えたり、薄くでもいいので関わったりしたい気持ちを持つ人はもっとたくさんいるはずだ。
 
ぼくがこのプロジェクトの最初から願っているのは、もっとささやかでいいので、もっとずっとたくさんの人が「いじめのことを気にしているわたしがここにいる」と存在を示してくれたらということだ。心打たれる記事を読んで「ねえ、このこと知ってた? どうにかならないかな」と記事をSNSでシェアしたり、よい記事へのリスペクトの気持ちを「注目」ボタンで示したり、ちょっと勇気はいるけど、一歩踏み込んで記事のコメント欄に感想や、質問や、異論反論を書き込んだり。そんなことが起きて欲しいと願って企画してきた。
 
というわけで、ぼくとつながっている全ての人にお願いです。「いいよ。そういうことならどんどん参加してやるよ」という方はぜひソーシャルアクションラボのサイトで「注目」ボタンを押したり「コメント」を書き込んだり、「投票」に参加したりしてください(投票結果などがデタラメにならないように登録が必要です。無料でも有料でも登録できます。ひと手間おつきあいください)。
 
よくわからないところに書き込むのは勇気がいるという方は、記事をFacebookにシェアしたり、Twitterにツイートしたり、あるいはぼく個人宛でいいので、「こうするともっと広がるんじゃない?」「この辺が書き込みにくいけどなんとかならない?」「積極的に参加してくれそうな人を紹介してあげよう」なんてアドバイスをいただけると、できるだけサイトに反映していきたいと思います。

満1カ月、生まれたてのサイトですが、大事に大事に育てていきたいです。ぼくは大真面目に「1ミリ、世界をいい方へ」動かしたいと考えていますし、このサイトがその手がかりになることを心から願っています。どうかみなさんの力をお貸しください。
 
ぼくが大好きな記事をペタリ

●「いじめる子にやさしくする」NPOジェントルハートプロジェクト 小森美登里さん
https://socialaction.mainichi.jp/cards/1/36
【テツガクしようぜ】④非対称な力関係のこといろいろ
2018年 05月 02日 (水) 19:22 | 編集
いじめとセクハラ


いじめの話とセクハラの話がいろいろ重なって見える。〈②「人権侵害だなんて、何を大げさな」なのか?〉で書いたことの繰り返しになるが、とりとめなく書き散らす方針なので、重複を気にせず書く。
 
さて、いじめとセクハラの共通点。
 
多くの場合、加害者側に罪の意識が恐ろしいほど欠けている点がその一つだ。「ふざけていただけ」「軽いじゃれあい」「あいつも笑っていた」「ちょっとした言葉遊び」などなど。言い逃れの場合もあるが、いじめやハラスメントを行っているまさにその瞬間、加害者側が「楽しんで」いるのは間違いない。加害者本人の意識の中では取るにたらないお遊びなのだ。それが大きな問題になるなんて想像もつかない。大きな問題になると「あの程度のことで、まさかそんなわけがない」と思うので「誰かにはめられた」などという発想が出てくる。
 
しばしば「少なくとも官僚ならセクハラに関する研修を受けているはずなのに」などと指摘されるが、たぶんそんなものでは全然伝わらないのだと思う。研修内容を頭ではわかっても、実は全く実感としてわかっていないだろうと思われる。なぜそんなことになるのかというと、「手掛かりのないことは想像すらできない」という話につながる。
 
ハラスメントの定義に「非対称な力関係」が含まれているのかどうか未確認だが、明記されていなくても、そこには必ず「非対称な力関係」があるはずだ。なぜなら、対等な力関係で、不快な言動を瞬時に止めさせることができるならば、それは継続するハラスメントには至らないからだ。継続しないならば、その一瞬の失礼な言動についての罰は受けるべきだろうが、一回限りのできごととして終わらせることができる。
 
問題は、言い返せない、抵抗できない力関係の中でハラスメントが行われることだ。パワハラ(アカハラなども含む)が強者から弱者に対するものだというのは字義通りだが、セクハラも構造は同じはずだ。いじめ加害者の場合は社会的な強者とは限らないが、いったん「いじめ」の構造が成り立つと加害者と被害者の関係はほとんど支配者と被支配者の関係になる。やはり非対称な力関係の問題なのだ。
 
加害者側の言葉として「嫌なら嫌と言えばよかったのに」「あっちだって同じことをやろうと思えばできた(場合によってはあっちが先に仕掛けたなどと嘘を言うこともある)」などというものをよく見聞きするが、これは「非対称な力関係」を無視した発言だ。ハラスメントを行う時は自分の優位を利用しているくせに、言い訳する時は平等を装う。タチが悪いのは、自分の優位についても無自覚で、相手が言い返せない、抵抗できないということの不快な思いを想像することもできないというケースだ。
 
ぎっくり腰をして初めて、足腰の弱った高齢者や歩行に難のある人が街に出る恐怖と不自由がわかる。経済的な苦境を味わって初めて、金銭に余裕のあるものには絶対にわかりようがない絶望があることを知る。言い返せない、抵抗できないという立場を味わったことのない者には、その苦悩は全くかけらも想像できないのだ。
 
いまの社会にはまだまだ理不尽な非対称がはびこっている。男女の性差はその典型で、男社会では相変わらず男は(実力以上に下駄を履かせてもらっていて)、圧倒的に優位なままだ。だからまずそこを根本から解決しない限り、何も解決しない。セクハラに関して男が「女から男への逆セクハラもある」と反撃でもしたつもりで発言している様子には舌打ちしたくなる。守られた安全な場所で何を言っているんだ、と。
 
白人社会における黒人・有色人種も同じだ。宗教や言語、風習におけるマイノリティも同じだ。ほんのすこし前の右利き左利きも同じだった。あいつは劣っている、変わり者だ、矯正すべきだと理不尽に貶められ、迫害される。
 
解決すべきハラスメントは全て「非対称な力関係」の問題なのではないかと思うのだが、違うだろうか? 対等に議論したり、制止や拒絶などで対応できるものはハラスメントになりようがない。言い返せない、抵抗できないという状況を利用して不快なことを押し付けるからハラスメントになるのだ。
 
本人の努力や工夫では今すぐにはどうにも変えようがない力関係(いわゆる非対称な力関係)を利用した不快な言動は、やはり「ゼロ」をめざすものではないだろう。けれども、その非対称性を意識して、それを利用する者を卑劣なものとみなす社会をつくることはできるのではないだろうか。これが社会全体に浸透すれば、ハラスメントの多くは駆逐されるのではないか、というのは希望的感想だが。
【テツガクしようぜ】③自衛隊の日報問題を横目に (高階記)
2018年 04月 30日 (月) 05:44 | 編集
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自衛隊の日報の話を書こうと思っていたのだが、書こう書こうと思いながら1週間ほど放置すると、あっという間に「過去のニュース」になってしまう。そのスピード感というか、「情報の消費され感」にうんざりする。
 
とはいえ、これはこれで書いておきたい話なのでさっさと書く。
 
自衛隊の日報の話で印象的なのは、南スーダンの件にしても、イラクの件にしても共通している。一つ目は、最初は「探しても見つからなかった」と言っていたのが後になって出てくること。それから「戦闘」という単語を巡って「法的な意味での戦闘行為ではない。 武力衝突だ」というような「言葉遊び」が繰り広げられることが一つ。
 
いじめと関係ないじゃないか、という向きがおられるかもしれないが、関係ある。関係あるんだな、これが。いじめのメカニズムとか、解決策といった話とは別に、どちらかというといじめに関する調査結果の扱いに関する話として。
 
平成28 年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」(確定値)という文部科学省の資料がある。その中にはいろいろ気になる数値がある。なかでもsocail action labチームの心をとらえたのは「自殺した児童生徒が置かれていた状況」で「家庭不和」「進路問題」「異性問題」などの諸項目が最大でも10%台なのにたいして、小学生で75%、中高でも50%強だった項目が「不明」ということ。
 
これと直接結びつくものではないが、「いじめられた児童生徒の相談の状況の推移」という調査結果も目を引いた。「誰にも相談していない」に、実に21.366人が回答しているのだ。思春期の子どもは、仮にいじめられて辛いと感じていても、自分がいじめられているということを認めないことがある。不振に思った先生や保護者に聞かれても「自分はいじめられてなんかいない!」と強く拒絶することもある。そういう状況が上記の数字の中には含まれているに違いない。
 
でもこれも、文科省主導で全国の学区が協力して出てきたアンケートだ。どれくらい実態を反映しているのかは留保つきだ。
 
たとえば、「<参考1> いじめの認知(発生)件数の推移」のグラフを見ると、何回か統計の取り方そのものが変わったことがわかる。H6(平成6年度)とH25(平成25年度)には対象とする学校の幅が広がっている。またH18(平成18年度)かたは「いじめの認知件数」をカウントすることになっている。それまでは「いじめの発生件数」だったのだ。
 
H18とH27あたりで急増して見えるがこれは「いじめの定義」が変わったことと、従来「けんか」や「ふざけあい」とみなされていたものも含むようになったのが原因であって、いじめそのものの件数が急増したのかどうかはわからない。
 
さらに言えば、「都道府県別 いじめの認知件数等」というデータで、1000件を切る県と3万件を超える県があるのは文字通りの差と受け取るべきなのか疑問がある。学校によって、あるいは都道府県や市区町村の教育委員会によって、「どんな些細なものでもいじめと認知しよう」と考えているか「いじめなんて少ない方がいい」と考えているか、その差が出たと考えるべきではなかろうか。
 
ここで、ようやく「日報」の話に戻ってくる。
 
「戦闘」という表現がまずいとなると、自衛隊の活動範囲が「戦闘」状態だということを示す資料が見つからないことにする、あるいはそこに出てくる「戦闘」は実は「戦闘行為」ではないという解釈を施す。
 
いじめについても、同じことが起きうる。口先だけの「いじめゼロ」なんて目標を掲げると、「いじめゼロの振り」をする学校が出てくる。そんなことはしないだろうと思いたいが、「都道府県別 いじめの認知件数等」の数字のばらつきを見ると、「そんなこと」をするところもあると考えないわけにいかない。
 
紹介した「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」は、手掛かりとなる重要な結果がたくさん載っていたが、その数字を鵜呑みにできるかというとなかなかむずかしい。重要な参考資料ではあるが、その数字が何を意味するかはまだこれからだ。
 
いじめは「発見」がむずかしいとされる。調査結果で表に出てきただけで2万人以上の子どもたちがいじめられているのに誰にも相談できずにいる。学校への調査では「いじめゼロのふり」をする学校もあれば「どんな些細な兆候もカウントする」ことで数字を急増させる学校もある。だとすれば肝心なのはその数字の多寡ではなく、いじめは事実今も起きていて、とりまく大人の意識は上記の通りバラバラで、危険な地域は隠蔽体質の可能性もあるということ。それだけは間違いなく見て取れるわけだ。
 
以上、自衛隊の「日報」のニュースを見ながら連想したとりとめない話。
 
※ここでは「いじめ問題の解決」については論じません。その話がしたい人は「social action lab(ソーシャルアクションラボ)」にご参加ください。議論があちこちに分散するのは良くないので、ご了承ください。「いじめ問題の解決」というテーマについては、ぼくもラボの一参加者としてコメント欄に出没していきます。
 
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