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【テツガクしようぜ】④非対称な力関係のこといろいろ
2018年 05月 02日 (水) 19:22 | 編集
いじめとセクハラ


いじめの話とセクハラの話がいろいろ重なって見える。〈②「人権侵害だなんて、何を大げさな」なのか?〉で書いたことの繰り返しになるが、とりとめなく書き散らす方針なので、重複を気にせず書く。
 
さて、いじめとセクハラの共通点。
 
多くの場合、加害者側に罪の意識が恐ろしいほど欠けている点がその一つだ。「ふざけていただけ」「軽いじゃれあい」「あいつも笑っていた」「ちょっとした言葉遊び」などなど。言い逃れの場合もあるが、いじめやハラスメントを行っているまさにその瞬間、加害者側が「楽しんで」いるのは間違いない。加害者本人の意識の中では取るにたらないお遊びなのだ。それが大きな問題になるなんて想像もつかない。大きな問題になると「あの程度のことで、まさかそんなわけがない」と思うので「誰かにはめられた」などという発想が出てくる。
 
しばしば「少なくとも官僚ならセクハラに関する研修を受けているはずなのに」などと指摘されるが、たぶんそんなものでは全然伝わらないのだと思う。研修内容を頭ではわかっても、実は全く実感としてわかっていないだろうと思われる。なぜそんなことになるのかというと、「手掛かりのないことは想像すらできない」という話につながる。
 
ハラスメントの定義に「非対称な力関係」が含まれているのかどうか未確認だが、明記されていなくても、そこには必ず「非対称な力関係」があるはずだ。なぜなら、対等な力関係で、不快な言動を瞬時に止めさせることができるならば、それは継続するハラスメントには至らないからだ。継続しないならば、その一瞬の失礼な言動についての罰は受けるべきだろうが、一回限りのできごととして終わらせることができる。
 
問題は、言い返せない、抵抗できない力関係の中でハラスメントが行われることだ。パワハラ(アカハラなども含む)が強者から弱者に対するものだというのは字義通りだが、セクハラも構造は同じはずだ。いじめ加害者の場合は社会的な強者とは限らないが、いったん「いじめ」の構造が成り立つと加害者と被害者の関係はほとんど支配者と被支配者の関係になる。やはり非対称な力関係の問題なのだ。
 
加害者側の言葉として「嫌なら嫌と言えばよかったのに」「あっちだって同じことをやろうと思えばできた(場合によってはあっちが先に仕掛けたなどと嘘を言うこともある)」などというものをよく見聞きするが、これは「非対称な力関係」を無視した発言だ。ハラスメントを行う時は自分の優位を利用しているくせに、言い訳する時は平等を装う。タチが悪いのは、自分の優位についても無自覚で、相手が言い返せない、抵抗できないということの不快な思いを想像することもできないというケースだ。
 
ぎっくり腰をして初めて、足腰の弱った高齢者や歩行に難のある人が街に出る恐怖と不自由がわかる。経済的な苦境を味わって初めて、金銭に余裕のあるものには絶対にわかりようがない絶望があることを知る。言い返せない、抵抗できないという立場を味わったことのない者には、その苦悩は全くかけらも想像できないのだ。
 
いまの社会にはまだまだ理不尽な非対称がはびこっている。男女の性差はその典型で、男社会では相変わらず男は(実力以上に下駄を履かせてもらっていて)、圧倒的に優位なままだ。だからまずそこを根本から解決しない限り、何も解決しない。セクハラに関して男が「女から男への逆セクハラもある」と反撃でもしたつもりで発言している様子には舌打ちしたくなる。守られた安全な場所で何を言っているんだ、と。
 
白人社会における黒人・有色人種も同じだ。宗教や言語、風習におけるマイノリティも同じだ。ほんのすこし前の右利き左利きも同じだった。あいつは劣っている、変わり者だ、矯正すべきだと理不尽に貶められ、迫害される。
 
解決すべきハラスメントは全て「非対称な力関係」の問題なのではないかと思うのだが、違うだろうか? 対等に議論したり、制止や拒絶などで対応できるものはハラスメントになりようがない。言い返せない、抵抗できないという状況を利用して不快なことを押し付けるからハラスメントになるのだ。
 
本人の努力や工夫では今すぐにはどうにも変えようがない力関係(いわゆる非対称な力関係)を利用した不快な言動は、やはり「ゼロ」をめざすものではないだろう。けれども、その非対称性を意識して、それを利用する者を卑劣なものとみなす社会をつくることはできるのではないだろうか。これが社会全体に浸透すれば、ハラスメントの多くは駆逐されるのではないか、というのは希望的感想だが。
【テツガクしようぜ】③自衛隊の日報問題を横目に (高階記)
2018年 04月 30日 (月) 05:44 | 編集
sal3

自衛隊の日報の話を書こうと思っていたのだが、書こう書こうと思いながら1週間ほど放置すると、あっという間に「過去のニュース」になってしまう。そのスピード感というか、「情報の消費され感」にうんざりする。
 
とはいえ、これはこれで書いておきたい話なのでさっさと書く。
 
自衛隊の日報の話で印象的なのは、南スーダンの件にしても、イラクの件にしても共通している。一つ目は、最初は「探しても見つからなかった」と言っていたのが後になって出てくること。それから「戦闘」という単語を巡って「法的な意味での戦闘行為ではない。 武力衝突だ」というような「言葉遊び」が繰り広げられることが一つ。
 
いじめと関係ないじゃないか、という向きがおられるかもしれないが、関係ある。関係あるんだな、これが。いじめのメカニズムとか、解決策といった話とは別に、どちらかというといじめに関する調査結果の扱いに関する話として。
 
平成28 年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」(確定値)という文部科学省の資料がある。その中にはいろいろ気になる数値がある。なかでもsocail action labチームの心をとらえたのは「自殺した児童生徒が置かれていた状況」で「家庭不和」「進路問題」「異性問題」などの諸項目が最大でも10%台なのにたいして、小学生で75%、中高でも50%強だった項目が「不明」ということ。
 
これと直接結びつくものではないが、「いじめられた児童生徒の相談の状況の推移」という調査結果も目を引いた。「誰にも相談していない」に、実に21.366人が回答しているのだ。思春期の子どもは、仮にいじめられて辛いと感じていても、自分がいじめられているということを認めないことがある。不振に思った先生や保護者に聞かれても「自分はいじめられてなんかいない!」と強く拒絶することもある。そういう状況が上記の数字の中には含まれているに違いない。
 
でもこれも、文科省主導で全国の学区が協力して出てきたアンケートだ。どれくらい実態を反映しているのかは留保つきだ。
 
たとえば、「<参考1> いじめの認知(発生)件数の推移」のグラフを見ると、何回か統計の取り方そのものが変わったことがわかる。H6(平成6年度)とH25(平成25年度)には対象とする学校の幅が広がっている。またH18(平成18年度)かたは「いじめの認知件数」をカウントすることになっている。それまでは「いじめの発生件数」だったのだ。
 
H18とH27あたりで急増して見えるがこれは「いじめの定義」が変わったことと、従来「けんか」や「ふざけあい」とみなされていたものも含むようになったのが原因であって、いじめそのものの件数が急増したのかどうかはわからない。
 
さらに言えば、「都道府県別 いじめの認知件数等」というデータで、1000件を切る県と3万件を超える県があるのは文字通りの差と受け取るべきなのか疑問がある。学校によって、あるいは都道府県や市区町村の教育委員会によって、「どんな些細なものでもいじめと認知しよう」と考えているか「いじめなんて少ない方がいい」と考えているか、その差が出たと考えるべきではなかろうか。
 
ここで、ようやく「日報」の話に戻ってくる。
 
「戦闘」という表現がまずいとなると、自衛隊の活動範囲が「戦闘」状態だということを示す資料が見つからないことにする、あるいはそこに出てくる「戦闘」は実は「戦闘行為」ではないという解釈を施す。
 
いじめについても、同じことが起きうる。口先だけの「いじめゼロ」なんて目標を掲げると、「いじめゼロの振り」をする学校が出てくる。そんなことはしないだろうと思いたいが、「都道府県別 いじめの認知件数等」の数字のばらつきを見ると、「そんなこと」をするところもあると考えないわけにいかない。
 
紹介した「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」は、手掛かりとなる重要な結果がたくさん載っていたが、その数字を鵜呑みにできるかというとなかなかむずかしい。重要な参考資料ではあるが、その数字が何を意味するかはまだこれからだ。
 
いじめは「発見」がむずかしいとされる。調査結果で表に出てきただけで2万人以上の子どもたちがいじめられているのに誰にも相談できずにいる。学校への調査では「いじめゼロのふり」をする学校もあれば「どんな些細な兆候もカウントする」ことで数字を急増させる学校もある。だとすれば肝心なのはその数字の多寡ではなく、いじめは事実今も起きていて、とりまく大人の意識は上記の通りバラバラで、危険な地域は隠蔽体質の可能性もあるということ。それだけは間違いなく見て取れるわけだ。
 
以上、自衛隊の「日報」のニュースを見ながら連想したとりとめない話。
 
※ここでは「いじめ問題の解決」については論じません。その話がしたい人は「social action lab(ソーシャルアクションラボ)」にご参加ください。議論があちこちに分散するのは良くないので、ご了承ください。「いじめ問題の解決」というテーマについては、ぼくもラボの一参加者としてコメント欄に出没していきます。
 
【テツガクしようぜ】②「人権侵害だなんて、何を大げさな」なのか? (高階記)
2018年 04月 29日 (日) 13:04 | 編集
social action lab

書きたいことが多すぎて何から書いていいかわからない。いじめ防災という話、ハッシュタグ#IjiMeTooの話、「発見・対処・予防」という整理の話、王蟲の話、レジリエンスの話、財務省で話題のセクハラの話、イラクの日報の話etcetc…。
 
後ろの方の話題はどれも全然関係ないじゃないかって? とんでもない。どれも密接に関係してくる。まず、そのことを書こう。
 
たとえば「財務省で話題のセクハラの話」。別なスレッドでも話題にしたが、セクハラは人権問題だ。けれど加害者側は「何を大げさな。コミュニケーションを盛り上げるためのただの言葉遊びだ」程度に認識している。いじめも同じだ。いじめの加害者は、あるいはかつていじめの加害者側にいた人は、「何を大げさな。ちょっとからかって遊んでいただけだ。あいつだって笑ってたじゃないか」と考える。それが深刻な人権侵害だった、自分は取り返しのつかないことをした、という風にはまず考えない。
 
かつていじめの加害者だった人が(ぼくもその一人だ。もちろん逆の立場も体験したがそちらは言い立てるほど深刻なものではなかった)、その忌まわしい過去を恥じ入り、口にも出せないかというと、そんなことはない。いじめていた自覚がない場合もある。傍観者だった人はもっと罪の意識がない。いじめがあったことを覚えてもいない。あるいは「ちょっとひどかったけど、まあ、子どものしたことだし」と考える。あるいは考えようとする。
 
そしてそういう人が社会のマジョリティを占めている。いじめに耐えかねて命を絶った人は社会に参加できないし、自己評価を損なわれてボロボロになった人は社会的に不利な立場になりがちだ。結果的に声が大きかったり、物事を引き回している人間の多くが「何を大げさな」と考えるタイプの人になってしまう。
 
大人がそうだと、あるいは社会のマジョリティがそういう価値観を持っていると、子どもも自然にそういう風に感じ、考えるようになる。親や親戚や、同級生や上級生や、場合によっては教師の誰かが必ずそういう「何を大げさな」という姿勢でいるはずだ。子どもがいきなりいじめを始めるのではない。
 
「イラクの日報の話」も同様に、社会の価値観と学校のいじめが結びつく。のだが、長くなるのでこれは次回書く。
 
※FBでは「いじめ問題の解決」については論じません。その話がしたい人は「social action lab(ソーシャルアクションラボ)」にご参加ください。議論があちこちに分散するのは良くないので、ご了承ください。「いじめ問題の解決」というテーマについては、ぼくもラボの一参加者としてコメント欄に出没していきます。
【テツガクしようぜ】①「いじめゼロ」は空論である、か。 (たかしな記)
2018年 04月 24日 (火) 08:44 | 編集
年初にテツガクしようぜと書いてからずいぶん間が空いた。本当は1月から始めてもいいシリーズだったのだが、3ヶ月遅れとなった。まあ、年度始めだしちょうどいいだろう。これを始めるきっかけは、新しいテーマとして「いじめ」のことをあれこれ考える機会をもらったからだ。年来取り上げてきた森、食、防災、発達などに加えて、いじめもまたライフワーク的に向き合うこととなりそうだ。
  
「機会」というのは、詳しく書いてしまうとそれだけで長大になる恐れがあるので、ごくかいつまんで書く。雑に説明すればこんな感じだ。昨年の夏の終わり頃、とある仕事のお誘いを受けて参加して、「ソーシャルグッドに関心のある人がわいわい参加して、アクションのアイデアがどんどん生まれて、そこに関わる人がわっせわっせと実際に行動して、社会をちょびっとずつでもいいから、確実に動かしていく発信基地になるウェブサイト」づくりに関わってきたのだ。そのサイトで、初っ端(しょっぱな)に取り上げるテーマが「いじめから こどもをまもる」というわけだ。
  
テーマそのものに向き合っての議論は、サイト「social action lab (ソーシャルアクションラボ)」ですべき内容だ。だからここでは「その周辺」の話を書く。いわば「いじめをテツガクする」のだ。
 
 
   *
 
今回、いじめについて、初めてまともにたくさんの資料にあたり、レベルも内容もまちまちのいろいろなポイントで「へえ、知らなかった!」と驚き、「そんなことになっているんだ」とため息をついた。そして陥りがちな(ぼく自身陥っていた)誤解や、間違った形で広まってしまった「常識」が多々あることを知った。
 
たとえば「いじめゼロ」「いじめをなくそう」といった言葉。あまり深く考えずにいいフレーズとして使われているが、ちょっと考え始めると「それは無理だな」ということがわかる。
 
ここで「いじめ論」を展開するつもりはないが、話の流れ上、少しだけ書く。
 
いじめる側を「加害者」、いじめられる側を「被害者」、直接は参加しないがまわりで見ている者を「傍観者」と呼ぶとして、いじめが起きているかどうか判定できるのは「被害者」のみであって、「加害者」や「傍観者」が「友達同士でふざけていた」と証言しても何の意味もない。「被害者」が不快や苦痛を覚えていればそれは「いじめ」なのだ。外からは判断できないことも多い。しかもさらにややこしい例として、その「被害者」本人が先生や親・保護者に対して「自分はいじめられていない!」と主張することもよくあるからだ。そして最悪のケースでは、その同じ子が自殺後に遺書やメモの形で「いじめられていた」という内容のことを記していたというような実例がある。こういう形の「いじめ」をゼロにすることが可能だろうか?
 
今の学校の環境がそのまま変わらない状態で、そのようなケースが絶対に起きないようにすることなど不可能なのだ。であれば、早期発見と適切な対処というのがいますぐできる緊急の対策だということがわかる。
 
少々時間がかかるが本質的な対策としては「なぜ学校でいじめが起きるのか」というメカニズムを徹底的に分析して、いまの学校制度そのものが「いじめ発生機関」として機能していることを明らかにし、その機能をなくす腰を据えた取り組みも必要だ。
 
……というような議論のこの先は「social action lab」に任せることにする。ここで言いたいのは「いじめゼロはありえない」というのは、とりもなおさず、「人間はある条件が整えばいじめを発生させる生き物だ」ということだ。そのことを直視しないで、「いじめゼロ」という目標を掲げても空論に終わってしまう。そして、そのような「空論」はたぶん他のテーマに関してもしばしば発生している。
 
さらに、「いじめ」は何も子どもだけの問題ではないことや、そもそも「social action lab」で取り上げるような手強い社会課題との向き合い方はどうあるべきか、といったことへも展開していこう。うん。このくらいの長さでどんどん書く(続く)。
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