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強大な力(激甚災害)の前に〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト②(たかしな記)
2016年 12月 16日 (金) 10:38 | 編集
harumi_san.jpg

(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)

とても強大な、抗いようのない理不尽な力が猛威を振るうことが時にあって、それは1000年に1度の大津波かもしれないし、経済効率優先主義が招いた“想定外”の原発事故かもしれないし、巨大不明生物による首都の破壊かもしれないし、隕石落下による大量死かもしれないし、ある日突如空を埋め尽くす機影と爆弾と銃撃かもしれない。
 
『この世界の片隅に』を語ることばを、それも他の人がまだ言っていない形で語ることばを、ぼくはようやく見つけることができた。それは、言うならば「強大な力がわたしの人生に決定的なダメージを与えた後、わたしはどう生きるか」ということについての映画だったのだ。
 
「『この世界の片隅に』は戦争映画でも、反戦映画でもない」ということばをよく目にして、ぼくもその気分はとてもよくわかるのだが、でもやっぱり戦争映画でもあり反戦映画でもあるとも思う。「軍人や兵器や戦略やドンパチのあるいわゆる戦争映画」や「銃後の困窮や爆撃の惨状を描くいわゆる反戦映画」でないことは確かだが、戦争が背景にあり、これを見て戦争肯定にならないという意味では戦争映画、反戦映画と言っていい。
 
でもぼくが「すごい」と思ったポイントはそこにはない。むしろ(これは防災コピーライターとしての職業病的な部分かもしれないが)、あの空襲が始まった瞬間の感覚、何が始まったのか、それは恐ろしいことなのか美しいことなのかさえわからなくなるあの感覚が、日常に不意に切り込んでくる抗いようのない大きな力という意味で、激甚災害を(天災も人災も戦災も同じ)思わせたのだ。
 
覚悟していようといまいと、それはある日やってくる。それも、事前に警報が鳴らずに思いがけないタイミングでやってくることもある。そしてそれまでの生活が続けられなくなる。家を失ったり、家族を失ったりする人もいる。すずは可愛がっていた、そして唯一の親友でさえあった姪を失った。端から見るとぼーっとして常識に欠け注意力散漫なグズのように見えるヒロインの人生を陰ながら支え続けてきた右手を、秘められた才能の象徴でもある右手を失った。
 
ある意味ですずの人生はあの時終わってしまった。「終わってしまった」は言い過ぎだとしても、それまですずの人生の重要だった部分が、一瞬にして失われ、そしてもう二度と取り戻すことができなくなってしまった。世界中の善意のパワーを結集して空襲をなくすような展開はありえないし、パラレルワールドに行って晴美さんや右腕が無事に戻ってきたりすることは決してない。
 
死んだ晴美は戻ってこない。すずさんの心の中ではいろいろな形で晴美の姿が蘇り、その声さえ聞こえるけれどそれは空想にすぎない。そして空想こそが最大の才能だったすずさんにとって、空想は空想にすぎず晴美さんが戻らないという事実はほとんど全人的に存在を否定されたにも等しい。すずさんの空想を目に見える形にして人に伝えることができた右手も、もうそこにはない。そのようにして何かが決定的に失われ、もう取り戻せないということは、現実世界でもいたるところで起きている。そこには奇跡はない。
 
ボーイ・ミーツ・ガールの魔法も、ネット民の力の結集も、パラレルワールドもない。
 
でも、残された人は息をして、食べて、排泄して、立ち上がり、仕事をして、時には涙し、時には声を荒げ、時には笑い、時には許しあって、生きていくのだ。少し前までは確実に存在した「苦しいながらもほのぼのとして笑顔のある生活」はすぐには戻らないかもしれない。それでも残された人は、残された身体は、生きて、生きて、生き続けるのだ。
 
これは、そういう映画だった。
 
あらすじを言葉にしてしまうと実になんてことのない話になってしまう。だから見終わった直後には、自分が一体何に感動をし、揺さぶられたのかがわからなかった。とりたてて戦争反対というわけでもない。苦しいはずの困窮生活だって楽しげにすら描かれていた。人類最初の原爆投下は、義姉との和解というホームドラマ的なクライマックスに被せられ、一瞬何をどう受け止めていいのかわからない描き方をする(そして呉では人々はきっと、まさにそんな風にあの閃光と空震を体験したであろうと、目からウロコが落ちるような思いとともに体験することになる)。
 
どちらかというとこの作品では感動する瞬間をぶちこわし、クライマックスをつくらないようにする。「良さげな音楽が流れて、主人公や仲間たちが心を合わせて一所懸命何かをやって素晴らしい解決が訪れる」なんていう瞬間は一切描かない。片渕監督はそういう意味でのファンタジーは排除した。だって、そんな奇跡は現実には起こらないから。晴美さんが戻ってこないように、右腕が取り戻せないように。
 
晴美さんが死に、右手・右腕が失われ、心の友は町ごと焼き払われ、スケッチをした懐かしい町はまるごと消えてしまい、家族の何人かは遺体も見つからず、妹は原爆症にかかっている。2度と以前のようには戻らない現実。それでも彼らは生きていく。いったんは幸福や自信や誇りや生きる意味を失って、人生が終わったと言ってもいい状態だったすずさんも生きていく。戦災孤児を引き取って(すずさんたちは知らないけれど、その母も右腕を失っていた)、その子と、晴美さんの母である径子と、すずさんと、3人でおそろいの柄の服を着るような日がいつかやってくる。
 
これはそういう映画なのだ。わたしたちは天災や、人災や、戦災を逃れられないかもしれない。何かが決定的に失われ、損なわれ、人生は終わったも同然になるかもしれない。それでも生きていく。そしていつか、あの3人のようにささやかな喜びを取り戻す。これはそういう映画だからすごいのだ、と今のぼくにはわかる。
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