クリエイティブ・ユニットLENZのblogです。
LENZ
スポンサーサイト
--年 --月 --日 (--) --:-- | 編集
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
音の風景。映画館で観るべき理由。〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト③(たかしな記)
2016年 12月 23日 (金) 18:22 | 編集
hakamairi.jpg

(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)
 
一般にアニメーションというと、平面に二次元の絵を描いて、少しずつポーズに変化をつけて大量な絵をパラパラマンガ的に処理して「動いて見える」ようにすることだと思われていると思うし、その理解が間違っているわけでもないだろう。
 
少し言葉を聞きかじっている人ならば、「animate」という単語には「生命を吹き込む」という意味があることを知っている人もいるだろう。そんな人は、AIでつくったゾンビのような動きをする人体の動画を見せられて激怒する高名なアニメーターの発言に「よくぞ言った。あそこには生命への尊厳がない!」なんて拍手を送ったりする(つくったのはAIだし、動いているのはゾンビだから、当たり前のことを言っているだけなんだけどね)。
 
閑話休題(そんなことはさておき)。
 
パラパラマンガにしても、animateにしても、いずれも視覚、ビジュアルの話をしている。でも一枚の静止画に命を吹き込む方法は視覚情報だけではない。サウンドトラックの出現以降、音もまた命を吹き込む役を担うようになった。
 
それはそうだ。画面で誰かに口をパクパクさせておいて、黒背景に白抜き文字で「火事だ!」と表現するよりも、画面にしゃべっている人は写っていなくても緊迫した声で「火事だ!」と聞こえた方がより臨場感が増すというものだ。誰にだってわかる話だ。
 
でも多くの人はアニメーションというと、ついついビジュアルな話のことを思い浮かべてしまうのだ。
 
『この世界の片隅に』を見た人ならわかるように、片渕須直監督は優れて視覚的な表現者だ。徹底した調査の話はよく聞くが、徹底した取材までなら、まだ途上に過ぎない。その取材を元にして、作品にふさわしい取捨選択を行いながら「すずさんが本当に生きている背景の世界」を作り上げたわけだ。調査も凄いが視覚表現による世界の再構築こそが凄い。
 
同じ建物だって竣工直後と、何年も経ってからでは違って見える。すずさんがその傍を通り過ぎた時のその建物はどのくらい新しく、どのくらい古びているのかを資料に基づいて定め、色や質感を決め風景の中に落とし込んで行く。橋も同じ。川や山や海は当時どうだったのか。町の遠景はどう見えたはずなのか。人々はどのような服を着て、どのように佇んでいたのか。
 
設定画の話だけではない。白波がウサギの跳ねる姿に見える海、色とりどりの対空砲火に染め上げられる空に叩きつけられる絵筆、爆発事故後の実験映画的なシーケンスに始まって続くすずさんの心象風景の世界は、アニメーションだからこそ可能なビジュアル表現の可能性を繰り出して、目を楽しませ魂を深くえぐる。よく出てくる「ショートレンジの仮現運動」にしても上記の実験映画的なシーケンスも「視覚表現の人」としての面目躍如だ。
 
でも、ここで書きたいのは「音」の話だ。つい監督の視覚表現に我々の目は奪われてしまう(文字通り、「目」が奪われてしまう)。けれど片渕監督の凄みは、それだけでなくとてつもなく「いい耳」を持っていることではないか、ということをここでは書きたい。
 
   *   *   *
 
呉の町についに敵機の姿が現れたシーンで、明らかに何かが変わる。そこで極めて重要な役割を果たしているのが「音」だ。監督はインタビューで、自衛隊の演習場で実際の音を録音したこと、その生々しさに戦慄したこと、それをあの「ぼーっとした」すずさんが体験したことに想いを馳せ、彼女がどれだけ恐怖心を味わっただろうかと考えたと語っている。
 
映画を観ながら、そのシーンまでの間にぼくらが体験しているのは、田舎ののどかな音の風景だ。家にいれば家族の声が聞こえ、包丁を使う音、かまどの火の音、ふつふつ炊ける音、水を運ぶ音、薪を割る音が耳に入る。季節ごとに鳥のさえずりや、虫の声も聞こえる。少々大きめの音であっても、いずれも穏やかにくつろげる親しみのある音ばかりだ。ちょうちょがひらひら飛んでいるような、のどかな田舎の音世界だ。その上に突如全く異質な音量と質感の砲撃音、爆撃音、機銃掃射音が切り込んできて、ぼくらの身をすくませる。耳だけでなく、皮膚や腹の底までの振動として轟く音。
 
すずさんが聞いた通りの音量で、すずさんが体験した通りの唐突さで、一瞬何が起きたのかわからないくらい鋭く、音の塊が切り込んでくる。それまで味わったことのない音なので、それが恐いことなのかどうかも正確にはわからない。一種の思考停止をもたらす。そういう音の風景が突如割り込んでくる。それ以降、来る日も来る日も「警報、もう飽きたあ」と言いたくなるほど続き、それまでの世界を完全に変えてしまう。
 
世界の片隅で生きる、歴史上には名前の残らないごく普通の人の日常の中に、戦争は突如割り込んできて、その世界を決定的に変えていくということ、すずさんの味わった世界の変化を、音を通して観客に体験させているのだ。ストーリー展開で見せるだけではなく、聴覚体験として、抗いようのない巨大な力を持つ災厄が日常を破壊する様を体験させているのだ。
 
なぜそんなことをするのか? 目的ははっきりしている。そのような出来事は何も遠い70年前の軍港の町だけの出来事ではないからだ。2016年7月の南スーダンの首都ジュバでも、2016年11月のシリアのアレッポでも、2016年12月のベルリンのクリスマス市でも、いままさに起きているからだ。ジュバの人たちもアレッポの人たちもベルリンの人たちも、そうなるまではまさか自分たちがそんな目にあうとは考えていなかっただろう。
 
2016年12月、ぼくらは自分の住んでいる町でそんなことが起きるとは考えていない。でもすずさんだって、裏の段々畑で警報もなしに空襲に遭遇したり、家のすぐ近くで自分が機銃掃射されるなんて考えていなかったろう。「遠い、特殊な時代の、かわいそうな女の子」の話ではなく、ぼくらの時代と地続きだ、ということを、音でも表現しているのだ。
 
もちろん、それだけではない。監督は前作で起用したコトリンゴの歌声(それはどことなくすずさんの声のようにも聞こえる)、楽曲や曲調、最後のピースとして追い求め続けたのん(本名・能年玲奈)の声、などへのこだわりにも「耳の良さ」が光っている。
 
クレジットに「音響監督:片渕須直」とあることに、多くの人は気づかないだろうけれど、画面の中に何を登場させ何を登場させないか、視覚表現者である監督が隅々まで目を光らせているのと同様に、『この世界の片隅に』において、どの場面で何の音が聞こえ、どのように聞こえるべきなのかを隅々まで耳をすませて設計しているということを意味しているのだ。
 
耳だけでなく、全身で味わう音なので、これはヘッドホンではダメだし、よほどの設備があれば別だが、一般的な自宅の音響設備では絶対に味わえない。だから映画館で体験するしかないのである。
 
【補足】
ぼくなりに長々と書きましたが、音に詳しい人が11/18に書いたブログを発見したのでひれ伏してご紹介します。
●「その音景の片隅に」(『この世界の片隅に』感想文)
Comment
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL :
comment :
password :
secret : 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright (C) LENZ all rights reserved.
designed by polepole...

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。