クリエイティブ・ユニットLENZのblogです。
LENZ
描くこと。描く人。〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト④(たかしな記)
2016年 12月 24日 (土) 11:00 | 編集
sayonara_hiroshima.jpg

(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします)
 
すずさんの素晴らしい才能の象徴である右手については、すでにものすごく徹底的な分析があるので、ぼくはそこには踏み込まない。下記のブログをご参照ください。「映画の本当の主人公は誰か」という刺激的な解釈で、とても読み応えがあります。
 
●『この世界の片隅に』と、「右手」が持つ魔法の力
 
ここでは「描くこと。描く人。」というテーマで考えたいと思う。ぐっと個人的な関心事に引きつけて言うなら、自閉症スペクトラム的な傾向を持った一点集中型の主人公について考えてみたい。
 
例えばすずさんは子どもの頃から絵を描くことが好きだ。絵を描くことが好き、というレベルではなさそうなことは、あの鉛筆のちびり具合からもわかる。ぼーっとしていると周りからは思われているが、彼女が描く漫画を見れば、少なくとも絵を描くことに関しては非常に高い集中力の持ち主であることは明らかだ。観察力があり、物語を構想する力があり、没頭して描き続け描き上げる力がある。
 
ではすずさんがとても器用かというと、裁縫をやらせると「そんなことじゃ嫁に行けん」と叱られるほど下手だ。好きなことにはとことんのめり込むが、やり方は自己流だ。着物の縫い目を解きもせずばっさり切ってしまう。食べられる植物を覚えて集めてきて自己流にアレンジして調理する様はほとんど創作料理だ。
 
そしてすずさんには皮肉が通じない。「あんた広島へ帰ったら?」と言われて文字通りの意味にとって、径子を呆れさせる。そして嬉々として帰省する。でも本人も気づかないうちにストレスを抱え込んでいるのはハゲが示している。極めて自閉症スペクトラム的だ。
 
要するに、部分的には、はたから見ても驚くほどの集中力や、場合によっては才能の輝きを見せるけれど、生きていく上ではあまり器用とはいえない。むしろ「ぼーっとしている」「何を考えているかわからない」「人の話を聞いていない」「周りからどう見られているかわかっていない」「空気が読めない」というタイプの人間だ。ひどく乱暴な決めつけ方をすれば「描くこと以外、能がない」と評されかねない人間だ。
 
こう書くと、高階はすずさんの悪口を書いていると考える人がいるかもしれない。とんでもない。上のパラグラフだけでぼくはもうすずさんにメロメロになってしまう。なぜなら、漢字こそ違うが、ぼくもまた「書くこと以外、能がない」人間だからだ。そして知りあいでもないけれど言わせていただくと、片渕須直監督も、こうの史代さんも、それから主演を務めたのん(本名・能年玲奈)さんも、恐らく同じカテゴリに属しておられるように(勝手に)感じている。
 
そう。『この世界の片隅に』は、「それ以外、能がない」タイプの人を中心に据えた物語なのだ。「生きづらさをかかえるアーティストの話」とこじつけたくもなるが、すずさんは自分で自分のことをアーティストとは思っていないし、周りからもそうは思われていない。ひょっとすると金賞をもらった水原さんはちょっとそんな目で見ていたかもしれないが。その水原さんも「すずは普通だ」という。だからこれはやはり「描くこと以外、能がない普通の若い女性」の話なのだ。
 
「描く」というのは文字通り鉛筆や筆を手にして、紙にかき付けることだけではない。冒頭船の中で「これからお兄ちゃんやすみちゃんに何を買って帰ろうか」と思い描くとき、すずさんは両手の人差し指を中に漂わせ交錯させながら考え事をする。径子さんに言われて服を仕立てる前にも同じ仕草をする。イマジネーションを働かせ、何かを構想するとき、すずさんは「描く人」になる。
 
再びこじつければ、それは原作者・こうの史代さん自身の分身に違いない。すずさんというキャラクターのあの実在感を考えると、これはほぼ間違いないと想う。そしてそれを一読してとても大切な作品だと受け止めた片渕監督も、誘いを受けて作品に触れて「ぜひやりたいです」と言ったのん(本名・能年玲奈)さんもまた、そこに自分の姿を見つけたのだと思う。
 
そう考えると、この映画に数多くのアニメーターやマンガ家・イラストレーターはもちろんのこと、ミュージシャンや作家などのアーティストがはまり、一斉に声をあげている理由が見えてくる。「絵を描くことしか、能がない」「曲を書くことしか、能がない」「楽器を演奏することしか、能がない」「文章を書くことしか、能がない」と周りから見られ、たまに尊敬されることもあるが、日常生活ではポンコツ扱いされ、でも「そうすることしかできない」から、「誰がなんと言おうとそうしていたい」から、ずっとそうやってきた人たちの心をとらえるのだ。
 
これは、何かの世界のマニア、おたく、研究者にも通じる。『この世界の片隅に』への人々のコメントの中で、とりわけぼくの心をくすぐったのはあらゆるジャンルのマニアたちが一斉に反応したことだ。この話はこの話で1回使いたいので、ここではさらっと流すが、彼らもまた同じカテゴリに属する同類なのである。
 
「そうすることしか、能がない」人々は、愛情を持って描かれた自分の分身を愛おしく見つめることになる。そして時限装置のついたあの忌まわしい爆弾のせいですずさんが右腕を失ったとき、そのあまりの残酷さに心の底まで凍りつくことになる。それは、絶対に起きてはいけないことだからだ。そんなひどい仕打ちはないからだ。しかもすずさんは晴美さんを死なせてしまったという罪悪感のもと、自分の右腕の喪失を悼むことすら許されない。まるで「当然の罰」のように受け入れざるを得ない。受け入れたくなどないのに。
 
あの展開の持つ意味は、ひょっとすると「そうすることしか、能がない」人と、器用に生きられる人の間でかなり違って見えるのではないかと思う。これは推測なので、わからないけれど、「そうすることしか、能がない」人にとって、右手を失うことは、生きる原動力を根こそぎ奪われたことを意味するのだ。その感覚は、たぶんわかってもらうのは難しいと思う。以下、そのわかりにくい話を続ける。
 
生きていく唯一無二の手がかりを奪われ、相手が自分を必要としている以上に必要な存在だった晴美さんを死なせてしまい(すずさんが殺したわけではなけれど、そう考えずにはいられない)、その母親と暮らす家の中に居場所はなく、家事どころか自分の服さえ着られない嫁に居場所はなく、晴美さんのいなくなった世界に居場所はなく、手をつないだり絵を描いたり薪を割ったりした右手のない世界に居場所などほしくもなく、だから周囲の人々の口から何気なく発せられる「良かった」ということばを、すずさんは受け入れることができない。良いことなんて一つもないから。
 
だから2つ目のエンドロールで右手が登場したとき「それはずるいよ」とぼくらは思う。だって右手は決して帰ってこないのだから。右手が出てきて絵を描くなんて、そんなの安直なファンタジーじゃないかと思うのだ。けれどそうではないことがわかる。右手は描く。リンさんの人生を。すずさんが知ることのないまま終わったリンさんの人生を。これはつまり「すずさんの見たものだけを描いた本編」とは別な、「描くこと」の意思表明なのだ。失われたものが描く失われた世界の失われた人たち。
 
右手は失われても「思い描く力」はまだある。映画の終盤、すみの傍ですずは「手がありゃ鬼イチャンの冒険記でも描いてあげられるのにね」と言う。そして鬼イチャンは南洋で生き延びて、幼少時代に見た人さらいの「バケモン」として復活し永遠の命を得ることになる。「描くこと」ができなくなっても、すずさんの「思い描く力」はものがたりをつむぎはじめる。それを60年も経て、一人の女性のマンガ家が受け止めてマンガにする。それを、さらに一人の映画監督が受け止めてアニメーションにする。そういう壮大なものがたり、「描くこと。描く人。」の大河ドラマを感じ取って、「そうすることしか、能がない」人々は勇気を受け取るのである。
Comment
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL :
comment :
password :
secret : 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright (C) LENZ all rights reserved.
designed by polepole...