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【朗読を哲学する3】必然性のあるヴォイスとは何か
2017年 07月 29日 (土) 14:31 | 編集
昨夜、MAREBITOでソロライブ「ものがたりの生まれるところ(SFP_live 3rd)」を開催。草加市で朗読のワークショップをやるようになってからは初めてで、出演者が3名もはるばる観にきてくれた。
 
以前にも書いた通り、ぼくのライブはいわゆる朗読というよりは、作品の作者自身が自分の書いたテキストでどこまで遊べるかを試すパフォーマンスだと思っているので、いろんなキャラクターも出すし、作品ごとにトーンもどんどん変える。その見本市的にやっている。
 
でも、昨日はちょっとだけ抑えた。そういう色物的なことをやるのは少数の作品に絞り込んで、ほかはできるだけプレーンにわかりやすく読むようにした。その結果、全作品で何かしら遊ぼうと試みたライブよりもしっくりくる部分もあった。余計なことをしないほうがいいものもあるのだ。
 
聞く側にとってどうだったかはまた別物で、アンケートでも「声色が少し多かったかな」というのもあったので、そのあたりの受け取り方はそれぞれである。
 
ぼくの中では、その作品があるヴォイスを要請している場合には、その人物の年齢性別口調をとりいれるのは「声色」だとは考えていないので、その認識の違いなのかもしれない。
 
その話をもう少し書こう。
 
語り手の声が、通常のその人の声から離れる場合には大きく分けて3通りあると思う。

1番目は、作品がそれを要請している場合。作品の中に具体的にどのような声かが記されていたり、あるいはどのような声であるべきかが絞り込まれる場合、できればそのようなヴォイスを採用するのは妥当だろう。
 
むろん、一切ニュアンスをつけないという方針はあってかまわないが、たとえばおっとりしたキャラクターをせかせか読んだり、せかせかしたキャラクターをのんびり読むのはテキストの要請に答えていないことになり、作品を損なうことになりかねない。そこにはヴォイスの必然性が感じられる。
 
2番目は、その声を使うことでしか表現できないことがある場合。テキストそのものの解釈の余地は多様だが、演出家または演者は「それをこのように伝えたい」という意思があって、それを伝えるためにはその声を要請する場合である。これは、テキストのものというよりも、「わたしはこのテキストをこう読んだ」という解釈を正確に提示するためのものだ。

原文のままだとその解釈を伝えられないわけだから、これもそのヴォイスを採用すべき必然性がある。

3番目は必然性のないもので、これが「声色を使いすぎ」と指摘される類のものだ。テキストも要請していない、その声を使ってはじめて表現できるほどの解釈の独自性もない、なのに何かしら声を作っているのは、根拠のなさにおいて弱い。むしろテキストの要請とも、解釈の意図とも関係ない分、「余分なこと」になっていたり、「誤読を誘発する」危険さえ考えられる。やめたほうがいい。悪しき声色である。

CDに吹き込んだときは、何しろ限られた時間で 115本を一気に収録することが目的だったので、できることを片っぱしからやってみた。第1回目、第2回目のライブまではその延長線上でやっていた部分も正直言ってある。その結果、3番目の悪しき声色を多く使っていたと思う。

その後、ワークショップのためにあれこれ考えるようになり、演者本人の声とは違うヴォイスが望ましいのはどういう場合で、それが望ましくないのはどういう場合なのかを探ったことが、上記の整理である。
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