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観客への信頼感。もしくは、タイムマシンに「つくり手の意見」は無用〜ネタバレ御免『この世界の片隅に』クエスト⑥(たかしな記)
2017年 08月 26日 (土) 18:39 | 編集
(本格的にネタバレ全開です。取り扱い要注意でお願いします。文末に想田監督からのリプライを追記しました)

実に半年以上間があいたが、とても興味深い文章を読んだので、その周辺を少し考えてみたい。その文章とは想田和弘監督がFacebookに投稿したもので(日本時間:8月24日20時23分)、詳細はご本人の文章を読んでいただくとして、すごく乱暴に要約すると、「政治性の欠如が気持ち悪くて仕方なかった」ということに尽きる。そして「政治の産物であるはずの戦争から政治性を脱色してしまって、本当にいいのでしょうか。戦争をあたかも自然災害のごとく描いてしまって、本当にいいのでしょうか。」と問いかける。
 
裏返して言えば、想田監督は「戦争を描く以上は政治性を描かねばならない」と考えているということがわかる。政治性を描くとはどういうことだろうか。「自然災害のごとく描いてはいけない」と考えておられるわけで、つまり「憲兵や隣組のような監視手段を策定した者やその意図」や、「そこに疑問もなく従う者たちが引き起こす残酷な振る舞い」や、「呉という軍港への空襲や、民間人も標的にした米軍の作戦の意図」や、「それまで標的ではなかった広島に原爆を落とす判断をした者の存在やそこに至る背景」を描き、観客に伝えるべきだ、考えさせるべきだということだろうか。いわゆる社会派の作品の創り手にとっては、そこは外しちゃいけない部分なのだろうと推察される。

『この世界の片隅に』はタイトルが表しているように、徹頭徹尾「世界の片隅」の視点から描かれた作品だ。当時の政治や戦争を動かしていた(とされる)天皇の視点や、軍人の視点や、政治家の視点は一切出てこない。毎日の生活に精一杯の、権力とも財力とも無縁の、景気によって生活が左右される庶民の目線で描かれている。彼らが知り得ないことは出てこない。
 
庶民の視点でそれらの日々はどんな風だったのか、それをありありと体験するために徹底的に背景を描き出す。街並み、天候、衣食住をはじめとした暮らしぶり、戦況に応じての様々な変化、実際に発令された空襲警報の日時と解除までの時間、軍港に見えたものなどを可能な限り調べ上げ映像に定着する。その結果『この世界の片隅に』はタイムマシンとして機能する。当時実際に呉に暮らした人々が「あの通りだった」と感想をもらす正確さで。
 
そしてそこには「つくり手の意見・主観主張(想田監督のご指摘を反映)」は入れない。なぜならタイムマシンにそんなものは不要だからだ。観客は淡々とそこを訪れ、ある時間を過ごし、さまざまな出来事に直面し、そして帰ってくる。その体験を通して観客ひとりひとりが、自分の中で何らかの考えを見つけ出す。そこには、観客に対する圧倒的な信頼感がある。きちんと描けば必ず何かを感じ取ってもらえるという信頼感だ。

それは、言葉で説明するのではなく「体験を通じて感じ取るものこそ、観客の心の中に深く長くとどまり、個人の体験レベルで受け止められる」という考え方をベースにした方法論だ。その方法論においては、つくり手の決めつけや、誘導は余計なものでしかない。言語化可能なものは表層にしか届かない。
 
社会派作品のつくり手は、まず伝えたいことがある。それは言語化可能なもので、映像はそれをできるだけ深いレベルで届けるための手段である。メッセージが誤解なく伝わることが重要なので、観客一人一人受け止め方が違っていい、などということは許されない。一方、片渕監督が『マイマイ新子と千年の魔法』や『この世界の片隅に』でやろうとしていることはその対極にある。言語化できるようなことは描かない。起きた出来事についての解説もしない。ヒロインすずさんの行動や考え方が正しいか間違っているかなどの評価も下さない。観客にはただすずさんの主観を共有体験させるだけだ。
 
思うに、「何が言いたいの?」と言語化可能な要約を作品に求める人や、「だから何なの?」と解説が必要な人にとっては、片渕監督のアプローチは不満が残るのではないだろうか。そのように考えると、想田監督の感じた気持ち悪さは「戦争を描く映画はこうあるべきだ」というご本人の信念とのずれから生じていて、片渕監督はそもそもそういう映画を撮っていないという根本的なところに相容れない理由があるように見える。これはもう、どちらが正しいという話ではなく、全く別なアプローチがあって、それぞれに必要とする観客も違うということではないだろうか。
 
ただ、ひとつ気になることがある。想田監督は、「たとえば憲兵とか、隣組とか、あんなにのほほんとしたものだったとは思えないです。」と書いているのだが、それは「間抜けな憲兵などおらず、のほほんとした隣組などなく、いずれも悪として描くべきだ」というかなり強い思い込みの上の意見のように見える。日本が正しく、最後の一人まで戦うのだと、疑問もなく信じていたすずさんのような人にとっては、憲兵も隣組もたぶんあんな風な理不尽さと滑稽を兼ね備えたものだっただろうし、戦後目線での「評価」など無縁だったはずだ。想田監督はどうしても戦後目線の「戦争は残酷で、無慈悲で、悲惨で、良くないものだったと評価すべき」という呪縛にとらわれているようで、そこはなかなか根深いものだと感じる。
【追記】

想田監督ご自身からTwitterで返信をいただいたので、追記します。

==========
これは全然違う。物凄い誤解です。僕の作品や著作をみていただければわかりますが、僕はテーマやメッセージありきの作品が一番嫌いなんです。「メッセージが誤解なく伝わることが重要なので、観客一人一人受け止め方が違っていい、などということは許されない」なんてとんでもない。真逆です。

たぶん僕が使った「政治性」という言葉が誤解を呼んでるんでしょうけど、映画に政治性は必要でもメッセージ性は不要なんです。この違いを説明しだすと大変なんだけど…。で、僕が言う政治性ってのは右とか左とか、そういう通俗的なものではない。夫婦や家族の間にも政治はあるでしょう?そういうこと。

「そこには「つくり手の意見・主観」は入れない。なぜならタイムマシンにそんなものは不要だからだ」っていう素朴すぎる考えにも引っかかるなあ。主観のない表現なんてないですよ。ドキュメンタリーだって主観の産物。現実にカメラを向けるだけでも作り手の視点が必ず入り込むんです。

「いわゆる社会派の作品の創り手にとっては、そこは外しちゃいけない部分なのだろうと推察される。」これも全然違います。外して結構です。全然問題ない。そういうことじゃないんだよなあ。いちから説明すると大変なことになるので説明しませんけど。
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