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初音ミク文化論「身体性なきボーカロイドの跳躍」を読む(高階)
2010年 11月 21日 (日) 22:22 | 編集
【初音ミク文化論「身体性なきボーカロイドの跳躍」】のことはご存じだろうか?

知人のミュージシャン@jsato_FLEETさんがトゥギャったもので、
11/19にアップされるや数時間のうちに2000viewを超え、
11/21現在4000を越えた状態になっている。

ボーカロイド(ボカロと略すらしい)に関してぼくは何も知らない。
初音ミクが登場した頃にサンプルの声を聴いたり、がくっぽいどで大受けしたのが最後。
つまり事実上完全に門外漢だ。まるっきり接点がなかった世界だと言っていい。
でもこのTogetterを読んで、正直「しまった、これはえらいもんを見落としてたぞ」と感じている。

早い話、読み始めて「すごい面白い」と感じて興奮し、
せっせとTwitterに備忘録的に送りつけまくった。
「すでにこのページで議論されていることかもしれないが」
と思いつつ、忘れないようにどんどん書き込んでいた。
するとTL上に@jsato_FLEETさんがいて、
ぼくのメモにコメントをくれるものだから、
@jsato_FLEETさんに返事を書いたりメモったりして
何だかもう訳がわからなくなってしまった。

@jsato_FLEETさんも別件のUstreamを見ながら
ツイート中継している最中だったみたいで、
お互いにやけに慌ただしいことになっていておかしかった。

まあ、そんなドタバタの内容をとりあえずここにまとめておこう。

初音ミクもまた、ソーシャルが生んだコンテンツであり、スターであり、
ひょっとするとバーチャルとリアルの境界を云々すること自体を
時代遅れな議論のフォーマットにしてしまった存在でもある。
始まったばかりの「ソーシャル論」がいきなり脱線するが、
かなり重要な話だと思うので脱線することをご容赦ください。

     *     *     *

2010年3月9日。「3月9日はミクの日」ということで、
ZEPP TOKYOで数千人の観客を入れてボーカロイドのコンサートを
リアルに開催したそうだ。これに対してボーカロイドのことも初音ミクのことも
知らない年寄りがそのニュースを聞いて「理解できん」と言うのは笑止千万だ。
そんなこと、全人類的に何千年もやってきたことじゃないか。

中心に身体性のない架空の存在を据えて、
身体性を持ったリアルな人間たちがリアルに集い、
思い思いの期待や憧れを持って架空の存在を称賛する。
その光景を、不自然という声があるが、
宗教では同じことを何千年もやってきている。どこが違う?

そんな風に考え始めるとなかなか象徴的なことに思い至る。

人類の壮大な妄想がコミュニティ全体の共有の「偶像」となったものが
いわゆる「神」なわけだけど、「偶像=アイドル」と考えると、
「架空の存在であるアイドル=初音ミク」を巡る現象はまさに
「神の誕生」のモデルのようにすら見えてくる。

#というようなところまで書き進めて
「いかんいかん。こんなことは彼らがとっくに議論済みのことかも
 しれないじゃないか。先を読もう。まだ半分も読んでない。」
 と呟いていたら@jsato_FLEETさんから
「初音ミクのライブはまさに偶像崇拝的というか宗教っぽいというか
 神が降臨してるっぽいよな…、と常々感じてますが、
 その観点からは議論してないですね。」
 との返信をもらった。その後何回かやりとりしたがややこしくなるので、
 ここでは詳細は繰り返さない。
 その後Togetterをじっくり読むとちょっと近いことに触れている人はいた。

     *     *     *

一方でメモしておきたいことの一つは、
海辺で波が打ち寄せる様子を眺めているような体験には
計り知れない情報量があるということ。
一つとして同じ波はなく、一つとして同じ音も立てない。

もし仮に、海辺に打ち寄せる波をものすごく上手に
シミュレーションできたとしても、
その情報量は圧倒的に少なくなる。ここも重要なポイントだ。
初音ミクは恐らくそれ以前のどんな音声再生ソフトよりも自由度が高く、
民生の商品としては人間の音声器官にできることはもちろん、
人間の音声器官では再現不可能なことまでやってのけて、
ほとんど「人間の声以上」にすら見える。
でもそれですら、恐らく情報量は圧倒的に少ない。
実際の人間の声に含まれる夾雑物的なブレや破綻は含まれていない。
だから計算不能な夾雑物やブレや破綻が生む表現を
真似することはできても創造することはできない。

これは表現者側における「ナマとは何か」という話になる。

     *     *     *

一方で、受けとめる側にとっての「ナマとは何か」というのも興味深い。

上にZEPP TOKYOの話を書いたが、
たまたまリアルの会場に同時に集まるケースに限らず、
ある動画コンテンツに対していろんな時間にいろんな場所の人が群がるのも、
リアルの世界の人々を実際に動員していると言える。
これは「バーチャル」と呼ぶべきものなのか。
何万人、何十万人に行動を起こさせその時間を物理的に支配している、
それを「バーチャル」と呼んで軽視することはナンセンスだ。
それは現実的にこの世の中で起こっている具体的な出来事なのだ。

もっとも、そんなことは映画やアニメでとっくに体験済みの話なのだが。
(こんな議論、ボカロネイティブ世代から見たら笑止なんだろうなあ)

     *     *     *

「聖性」というキーワードもでてきた。
これについては、こんな問題設定を思いついた。

もしもギターを使って会話が成立する言語をつくれたら?
うまいギタリストはものすごい表現力でしゃべれる話し上手で、
ギターが弾けない人は口下手ということになる。
ではその時、シンセサイザーを使ってギターの音色で
打ち込まれた「演奏」はどう位置づけられるだろう?

いま現実の打ち込み音楽を聴いても聖性を感じることはない。
けれどもそれが言語でもあり、コミュニケーションの手段でもあり、
意味内容を持った言葉として物語を伝えて来たらそどうなるだろう。
「聖性」は、ことばや物語に紐づいているのではないだろうか?

     *     *     *

【初音ミク文化論「身体性なきボーカロイドの跳躍」】を読了したの感想は、ひとこと
「面白かった~!」

終盤の、「内※1」と「外※2」の融合をめぐる議論に関しては、
あまりにも「そのまた外部」な立場なのでコメントしようもないが、
個人的に「歌と感動」「聖性」「偶像」「神」「宗教」「教会と国家」
みたいなことをぐるぐる考えて興奮状態にある。機会を見つけてもっと深めよう。

※1内:ボカロを作り楽しむ人の世界
※2外:ボカロ外部。特にリアルな音楽業界
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