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語り、考[其の二](高階記)
2011年 06月 06日 (月) 09:12 | 編集
いまさらながら語りについて考えるシリーズ第2回。
と言っても別にシリーズにするつもりはない。
これまた昨日Twitterにつらつら書いためてしまったので整理するだけ。
(mixiに先に掲載したものとほぼ同文です。
 mixiで読んだ方はご足労いただきすみません!)

     *     *     *

「物語の立ち上がる場所」について考える。

語りの場合、それは間違いなく観客・聴衆の中だ。断じて「舞台上」ではない。室内(店内)や屋外の風景などをセットでリアルに表現した具象の舞台と、語りの決定的な違いがここにある。語りは(基本形で考えると)、観客・聴衆の前には一人の語り手の声と肉体しかない。そしてそこから提供されるのは耳から入る物語と、語る声の調子くらいのものだ。自分の中で物語を立ち上げるほか、物語を楽しむ方法はない。

こんな風に書くと、語りを楽しむのにはすごい想像力が必要なような気がしてしまうが、それは違う。

ちょっと考えればわかることだが、そんなことは小さな子どもたちは当たり前にやっている。親や先生や話し好きのお兄さんやお姉さんや大人たちが絵本を読んだり、本を読んだり、話を聞かせてくれたりするとき、子どもたちは夢中になってその物語を楽しむ。理解できなくても楽しんでしまい、もっと聞かせろ、何度も聞かせろとせがむこともある。

もちろん、すごい想像力の持ち主ならば、人並みはずれた楽しみ方ができるのだろうけれど、「お話を聞く」という喜びを味わうのに、それほど特殊な能力は必要ない。というか、たぶんこれはもうほとんど人類共通の本能に近いレベルの快楽・喜びなのだと思う。なので、語りを楽しむ力は誰の中にもある。それは前提と考えていいだろう。

冒頭に戻ると、そういうわけで語りの場合、物語は観客・聴衆など鑑賞者の頭の(胸の?心の?)中に立ち上がる。もっとも、突き詰めて言うと、これは語りに限らず、演劇でも、映画でも、もっと言えば舞踏でも音楽でも絵画でもあらゆる芸術表現に通じる話でもあるはずなのだが。

     *     *     *

鑑賞者の中に物語世界を立ち上げる方法についてもう少し考えよう。

鑑賞されることを想定した芸術表現は、鑑賞者の中に何らかの反応を引き起こすことをめざすものだし、また、そうあるべきだろう(鑑賞されることを想定しない、表現者自身のためだけの芸術表現もあるので、それとは区別する)。

テレビドラマの中には、何から何まで説明してしまうタイプのものがある(テレビと言うメディアの特性としてそういうタイプのものの方が多い)。「ここ、いいシーンですよ!」とピアノ曲が流れ、「泣いてください」と弦楽器がむせび泣く。「片目から涙が流れ落ちますよ!」とクローズアップし、「どうです孤独でしょう」とロングショットに切り替わる。

こういった作品の場合、鑑賞者はただただ受け身で楽しむことができる。与えられるものを与えられるままに「ああ、そうかそうか」と言っていれば、笑い所も泣き所も全部教えてくれる。でもそこで泣いたのは本当に魂が震えて泣いたのか? 笑ったのは腹の底から笑ったのか? 早い話そのドラマを見て笑ったり泣いたりしたことが三日たったり、一か月を経て、じわじわ効いて来ることがあるだろうか?

鑑賞者が受け身でぼーっと見たり聞いたりしているのではなく、ある程度能動的に自ら参加してはじめて、深いレベルの感動は生み出されるのだ。登場人物の感情に強くシンクロして動悸がしたり、何日もたって急にその物語のシーンを思い浮かべたり、あるいはその物語をくぐり抜けて以降、物事の見方が決定的に変わってしまったり、そういうことが起こるためには、鑑賞者の積極的な参加をどう促すかが重要なポイントになる。

     *     *     *

どんな表現にもそのチャンスはある。けれど本日現在、ぼくはいま「語り」に夢中なので、「語り」について語る。「語り」が唯一最高の芸術表現だなどというような暴論を展開する気は毛頭ないが、内心ちょっとそう思っているという本心も告白しよう(笑)。

さて。語りは多くを観客に委ねる。語り手(演者)の声と肉体、耳から入る「物語」以外の情報はない(実際には音曲や舞踊が合わさることが多いのだけれど、ここでは究極の「語り手一人」というスタイルで考えてみる)。

一部の先鋭的な表現を除けば、ほとんどの舞台や映像で、登場人物は具体的な外見(髪型、髪や皮膚の色、身長体重、声、身体や喋りのクセ)を持っているし、場所や時代もたいていは具体的に指定されていて、鑑賞者はそれらの情報を精確に把握することができる。 というか一目瞭然に受けとめる。

ただし、そこには鑑賞者が関わる余地はない。それらはもう決定事項で、鑑賞者が自由に想像したりすることはできない。語りの場合、鑑賞する人はまずそこから全部を委ねられる。そこはどんな町なのか。それはどんな家族なのか。人々はどんな生活をし、どんな家に住み、どんな店に集まり、どんな価値観を持っているのか。彼女はどんな声と仕草で彼を誘惑したのか。牛車はどのような恐るべき熱を放って炎上したのか。

視覚情報なし。味覚情報なし。嗅覚情報なし。これが正解ですと規定するような聴覚情報なし。温度や重さ、そして痛みを感じさせる触覚情報もなし。でももしあなたが十分に物語に入り込むことができたなら、あなたはそれら全てを感じ取ることができる。世界はあなたの中で立ち上がり、そしてそれは、世界でただ一つ、あなたのためだけにつくられた特注の物語世界なのだ。

これが「語り」の強みにほかならない。そして、同時に弱点でもある。

もしも語りが不十分で不正確で鑑賞者の目や耳や心に届かないものだったら、そして鑑賞者の中に立ち上がりかけた世界があやふやで不明確なものにしかならなかったら、物語の真価は伝えられないままに終わってしまう。諸刃の刃でもある。

長くなった。ここでいったん留めよう。
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