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語り、考[其の三](高階記)
2011年 06月 10日 (金) 10:48 | 編集
語りに関する考察を続ける。

第1回では語りにおける「演出」が、一般的な演劇とは違うことを指摘した。
第2回は、はなはだ手前味噌的に「語り」という表現が持つ可能性、深い衝撃的な感動をもたらす可能性について書いた。
第3回は、演じる立場から(というより、演じた立場から)書いてみたい。

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今回ぼくが取り上げた演目「◇ぼくが今ここにいる意味」は、主人公の「ぼく」が語り続ける一人称の物語だった。他の人はほとんど登場せず、また他の人との会話もない。冒頭で「行ってらっしゃいとかすかに(家族の声が)聞こえた気がする」というのと、道で出会った顔見知りに「おはようございますと挨拶をする」とあるのがかろうじて、他の人との会話風だが、せいぜいこの程度だ。

つまり全文を通してこれは、一人称「ぼく」による長い独白となっている。ボイスはほぼ一種類と言っていい(作品の末尾に若い高校3年の頃の「ぼく」の文章の引用が出てくるのが、ボイスのバリエーションとなる)。

でも語りにはもっといろいろなタイプがある。やはり一人称で語られる場合でも、会話がたくさん出てくるようなものもある。こういう時にはおのずとそれぞれの言葉を発する別な人格の多種多様なボイスが混在することになる。

そしてもちろん、登場人物がすべて三人称「彼」「彼女」となる物語がある。この場合、一人称が出て来てもそれは登場人物ではなく「作家・書き手その人」「演者としての語り手その人」ということになる。三人称の物語は「会話」と「地の文」の部分にわけられる(芸能としての語り物を考えると「会話」「地の文」と「うた(詞章)」になることが多い)。

数は少ないが「あなた」「きみ」を主人公におく二人称の物語もある。これは、一人称のバリエーションと考えていいかもしれないが、ここでは踏み込まない。今回ぼくがやったのは最もプレーンな「一人称」タイプだったので、まずはこれについて稽古や本番を通して考えたことをまとめる。

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既にお気づきのことと思うが、まず、登場人物の「ぼく」と演者である語り手のぼくはイコールではない。先日の「◇ぼくが今ここにいる意味」は一人称の物語だったため少々紛らわしいのだが、語り手のぼくは、当たり前のことだが、主人公の男性ではない。ぼくは被災していないし、家族の元を離れて何年も経ったりしていないし、高校生になる下の息子もいない。 ぼくは、ただ主人公の男性についての手がかりを全身全霊で提供するのみだ。それが語り手の仕事だ。

手がかりとは何だろう?

一人称の主人公の場合、テキストは全て主人公のことばになる。語り手(演者)は、そのことばがどのように発せられたか(口に出されたか、文字に書かれたか)を、どのような息遣いでどのような感情の元に発せられたかを、観客が想像できるようにきちんと伝えることが大事な仕事となる。主人公は楽に喋れているのか、息が詰まっているのか、深く長い呼吸で語れているのか、浅く短い呼吸でしか出せないのか。観客や聴衆はそれを手がかりに、そのテキストの背景にある語り手の状態を類推することができるようになる。

ただ、今回のようなプレーンな一人称の物語の場合は、観客側からすると俳優がある役を演じているのと差はわからないだろう。 嬉しい感想として、何人かのお客さんから「泣きました」と声をかけていただいたことと、中には「あれは実話ですか?」というものや、また別な人からは「その人がそこにいるようにしか見えなかった」というものがあった。どれも大変光栄な話で、久々の舞台でそういう風に感じる人が出て来たことに大きな手応えを感じた。それは本当にありがたいことなのだけれど……。

ここから、いささかヤヤコシイ話になる。

一般的な演劇の役者ならば「その人を演じ切った」ということになるだろう。ところが語りという視点からは、ぼくは役を演じたつもりはない。そして大事なのは、ぼくが何をやったかではなく、お客さんがご自身の中に「その人の像を結ぶことができた」のだという点だということだ。

ぼくの服や靴は泥にまみれてもいなかったし、連日の野外作業で日に焼けてもいなかった。手だって傷一つないし、およそ肉体労働やアウトドアな暮らしをしている肉体では全然ない。場所は中目黒のこぎれいなカフェだし、ぼくが直接座り込んだ床も、きわめてきれいなものだった。

でも、何人かのお客さんはそこに、被災地で連日がれきの山に向き合い、物を動かし、泥を掘り、たくさんの人のたくさんの思いでの品に向き合い続ける男の姿を感じ取り、その男の心の動きに共鳴したのだ。ぼくは座ったきり、ほとんど身振りも手振りもせず、空間全体に声が届いているかに気を配り、テキストの中のポイントとなる個所で呼吸を変え(それに伴って感情も変わる)、声がひっくり返らないようにコントロールしながら丁寧に語ることを心掛けた。

ぼくが「その人」そのもののように感じて感動してくれたお客さんに、こんな裏話をする必要は本当はないのだけれど、つまり、言いたいことは何かというと、ぼくは役者のようには「その人」を演じてはいなかったのだ。ぼくは「その人のボイス」に関する情報を、呼吸や身体の状態をつくりながらボイスに反映させて伝えることに専心していたのだ。その結果、お客さんの想像力が豊かに広がり深まり、そこにくっきりと情景を描き出し、ひとりの男を目の前にありありと思い描くことができたのだ。ぼくはそう思う。

     *     *     *

最後にまた、自分のことは棚に上げて書く。

今までにも「ちょっといい話」に関連して何度も言ってきたことだけれど、語りはやはりお客さんの想像力を信用して、圧倒的に信用して、初めて成立する。演者である語り手は、一人でも多くのお客さんの想像力がぐんぐん育つよう、預けられた共有する時間と空間を責任を持って引き受けて、丁寧に精確にものがたりを伝えて行く。そうすることで、お客さん一人ひとりの中に物語は芽を出しすくすく成長し葉を繁らせ花開き実を結ぶ。

語りがうまく行くと言うことは、つまりお客さんの想像力の勝利でもある。そこがミソなんだと思う。圧倒的な演出家が「これでどうだ!」と舞台上に凄いものを現出させるのも素晴らしいと思うけれど、ぼくが語りを愛するのはやはりお客さんの想像力が確かな勝利を収める、その瞬間を共有できる喜びなんじゃないかと。

ほんとの最後に。

「一人称の語りは役を演じることと区別が付かないから」というわけではないが、そのうち「地の文」のあるテキストや、三人称のもの、ひょっとすると二人称の作品なども試してみたい。試したいこととしては、演出家に稽古を見てもらいたい。今回は完全に一人だったので。 さあて、誰に頼もうかなあ。
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