クリエイティブ・ユニットLENZのblogです。
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語るに値することを語り合おう(高階記)
2016年 11月 11日 (金) 10:06 | 編集
ドナルド・トランプが大統領に選出され、TPPが衆院で可決され、駆けつけ警護が始まる南スーダンではケニアが舞台を撤退するなど世界は騒然としている。大見出しの大事件があっても、ぼくらは眠りから覚めると昨日と続く自分自身の毎日を過ごすことになる。
 
久しぶりに、電子絵本『96歳の遺言』についてひとこと。これは80代ブロガーの中谷久子さん(a.k.a.hisako-baabaさん)が、当時96歳のおけいさん(故人)から聞いた話をまとめた聞き書きを電子絵本化したものです。ぼくはそのプロジェクトメンバーの一人です。
 
初めてブログを読んだ時「これだ!」と感じ、惚れ込みました。それは、「戦争だけは絶対やっちゃダメだよ!」とテンポのいい江戸っ子口調で力強く語られるおけいさんの一代記に魅せられたから。カラッとした文体とは裏腹に、幼少時代、戦争に至る日本、戦時中の生活、そして戦後に長く後を引く、戦災と呼ぶべき生活苦のエピソードが満載で、それこそが「語るに値すること」だと感じたのです。
 
「武力・戦略・武器」で語られる「大文字の戦争」ではなく、「死傷・飢え・困窮」をもたらす「等身大の戦争」がそこには描かれていました。敢えて言えば「男が大好きなドンパチ」ではなく、「女が体感した生活の中の戦争」がそこにはありました。政治家でもない、職業軍人でもない、圧倒的多数の非戦闘員である国民にとって、あるいは徴兵される者にとって、戦争とはどういうものなのかが伝わってきました。
 
平和ボケしたぼくらは「戦争」というと「大文字の戦争」をつい思い浮かべがちですが、イラクで、シリアで起きている通り、本当は「等身大の戦争」のことこそ実感を持ってわがことととらえる必要があるのでは?とぼくは考えます。
 
おかげさまで電子絵本『96歳の遺言』は多くの人に読んでもらえ、いろいろな反響もいただきました。ぼくにとってとても大切なプロジェクトです。
 
   *
 
このところぼくが『この世界の片隅に』を応援しているのは、『96歳の遺言』と通じる部分を感じているからです。映画を観る前から応援していたのは単純に、「芸能事務所の横暴な圧力で、大勢の人が命を削ってつくった作品が封じ込められるなんて絶対許せん!」という義憤のような気持ちからでした。
 
けれど、実際に試写会に足を運んで映画を見て立ち位置が変わりました。「ああ、これはもう一つの『96歳の遺言』だ!」と感銘を受けたのです。
 
おけいさん同様、物語はヒロインのすずさんの幼少期から始まり、ある意味で「すずさんの一代記」と言えなくもありません。おけいさんとは対照的に、すずさんは、おっとり、ぽや〜んとしていて(劇中は「ぼーっとしている」と言われています)、柔らかくて可愛い広島弁で語ります。
 
彼女は典型的な天然で、次々に笑いを引き起こします。そして一所懸命に毎日を生きています。境遇をどこまで把握できているのか見ていて不安になるようなところもありますが、前向きに明るく工夫を重ねる様子にはたくましさも感じます。すずさんのいる場所に笑いが絶えません。
 
   *
 
ええと。内容的なネタバレはしませんが、この後「観た後の個人的な感想」を書きます。念のため、これから観る人で、事前情報を嫌う人はここで離脱してください。
 
   *
 
すずさんは想像力豊かな人で、彼女が上手に描く絵は、あるいは彼女の目を通した世界はとても美しく、ファンタジックでさえあります。そんな「すずさんの毎日」を見ているだけでもとても豊かな体験なんですが、もちろん、それだけでは終わりません。戦争の気配は日常の中にも入り込んできます。
 
この作品では、戦争の悲惨さをこれでもかと描くようなことはしません。むしろ、その中でも続く「毎日」の方を大事に描きます。大きな災厄が起きても、それでも「毎日」は続きます。明るい工夫だってできます。笑いも絶えません。映画はそこを丁寧に描きます。ぼくはそのことに仰天するほど感動して、観る前とは全く別な動機でこの映画を応援しようと心に決めました。
 
この映画は、毎日を丁寧に生きようとする全ての人に向けられた映画です。大事なものが見つかる映画です。
 
素人にはよくわからない理不尽な事情から、テレビ広告もなく、上映館の数も小規模にスタートを切らざるを得ないようですが、ほんとは世代を超えて、いずれは国境も越えて、大きな反響を巻き起こすであろう作品です。大切な人と一緒に観に行って、大事なものを一緒に見つけてほしいと思います。
 
『96歳の遺言』、読んでください。明日11/12公開の『この世界の片隅に』、観てください。ぼくにとっての最新作でもある『Silently She Dances』もまた同じテーマだということに書いていて気づきました。
 
書いていてとりとめなくなりましたが、どれも、ぼくの大切にしているものの話です。読んだ人、観た人といっぱいおしゃべりしたいです。ぜひ、ご一緒に。
ポケモンGO日本初日の憂鬱(高階記)
2016年 07月 22日 (金) 21:05 | 編集
「ポケモンGOを研究して、ポケモンGOみたいな大ヒットゲームをいますぐつくれ!」と、号令をかけるアンポンタンな上司と、それを聞いて頭を抱えるゲームアプリ開発陣──というような情景がきっと世界中で展開されるんだろうなと思うと少し憂鬱になる。
 
「ポケモンGOみたいなゲームをつくれ!」とすでに口走ってしまった上司の皆さんと、週明けにそう言おうと思っていた上司の皆さんは、これを読んで猛省していただきたい。
 
   *
 
ポケモンもIngressも全く知らない人は、任天堂がたまたますんごい大ヒットゲームを開発したんだと思ってしまうかもしれないが、もちろんそれはとんでもない勘違いだ。
 
ポケモンには1996年の発売以来、紆余曲折はあったものの世界的な大ヒットゲーム・アニメ・映画etc.へと成長した20年超の歴史があり、そのファンだった子どもたち(上はもう35歳くらいから現役の子どもまで)と、子どもに付き合ったその親たち(上は60歳くらいまでいくだろう)と、「親子2世代×20年分」という膨大な数の、ファンと呼んでも差し支えない人々が、その世界観をあらかじめ理解している。
 
それに比べて、Ingressというスマホゲームは正式運用が2013年暮れと、わずか2年半しか歴史がないものの、その間、ユーザーと運営が協力しあって全世界500万カ所(たぶん)に「ポータル」と呼ばれる緯度経度情報を持つスポットを埋め込みまくった。ナイアンティック社は、そのGoogle Mapをベースにした地図情報を使ったゲーム用プラットフォームという強力な「インフラ」を持っている。これは誰にもすぐには真似できないし、どう転んでも太刀打ちできない財産だ。
 
全世界にかかえるポケモンファンとその周辺の人々、そしてナイアンティック社が持つ地図情報、そしてそれを使ってゲームとして遊ぶためのプラットフォームなくしては成立しない成功なのだ。スマホの中だけで完結するようなゲームとは背景が全く違うのだ。
 
でも「ポケモンGOってのがパッと出てきて大成功を収めた。ああいうのをやれ!作れ!」と言ってしまう人はそういうことを全く知らないし、理解もできない。丁寧に説明してもたぶん理解できない。言われた方は頭を抱えるしかない。
 
当分、その手のゲームデザイナー、アプリ開発者の憂鬱が続くことは間違いないだろう。
 
   *
 
ポケモン世代の子どもを持つ親であり、にわかIngressアディクトでもあるぼくは、しかし、全然別な理由でまだポケモンGOを使っていない。この数ヶ月間、ぼくにとってひそかな愉しみだったIngressのポータルが、何だかわからない熱を持った人々の溜まり場になってしまっているのかと考えただけでもうんざりしてしまう。だから今日はまだ何もしないまま家に引きこもっている。ぼくにはぼくの憂鬱があるのだ。
個人を徹底的に尊重&同調圧力への抵抗(高階記)
2016年 07月 07日 (木) 08:32 | 編集
ふと思いついて、ふと書き付けてみたら、自分の中がすっきり整理できた気がするので書き付けておく。

「多様な個人を徹底的に尊重する」のか「お上に反する個人の勝手は許さない」のか「その間のバランスをとる」のか。その価値観が問われている。目先の選挙に限らず、あれやこれや全ての一見複雑な争点はそれでだいたい説明がつくんじゃなかろうか。

教育もそう。防災もそう。外交もそう。信教もそう。表現もそう。居住や職業選択もそう。学問もそう。婚姻もそう。社会福祉や社会保障、公衆衛生みんなそう。放送・通信やエネルギーもみんなそう。たぶん、大きな問題になっていることも、つきつめて「そこに個人を尊重する姿勢はある? 同調圧力に従わせようとしてない?」という視点を持ち込むと整理しやすくなる。

ぼくが一番危険だと思う状態は「まわりに合わせろ」「普通になれ、普通にやれ」「空気を読め、自粛しろ」という同調圧力やら無言のプレッシャーが働く世の中。そっちに向かいそうな現象を全力で食い止める。それが基本方針かな。

「同調圧力反対」なので、もちろん異論反論コメント、大歓迎です。
ようこそLENZのブログへ(高階記)。
2015年 07月 11日 (土) 15:08 | 編集
たぶん、TEAM防災ジャパン経由でお越しのかたが増えるのではないかと思い、
長らくさぼっていたブログを久々に更新する。

TEAM防災ジャパンの「リレー寄稿」に登場することになって、
どう考えても周りのみなさんの活躍ぶりからするとそこに名前を連ねるのが恐れ多いので、
いったんは辞退しようかと思ったのだけれども、この機会に自分は何をしたいのか見直し、
「コピーライティングやファシリテーションができる防災士」だからこそできること、
役に立てることがあるのではないかと考え、厚かましくも原稿を寄せさせていただいた。
 
ぼく自身のベースはコピーライターであり、小説や演劇といった創作の物書きでもあり、
要するに「ことばの人」だ。行動力はからっきしだけれど、
誰に何をどう伝えるかということについてはそれなりの経験も知識もある。
 
防災の世界において「現場感の薄さ」は劣等感を覚えさせるものだけれど、
一方で「現場感は薄いが防災・減災に関心は高い」という、
ぼくみたいな人間も関われるようになると、日本の防災・減災の世界は、今よりも
ボリュームが増えるし、分厚く多様な形になっていくのでは?とも思う。
 
まずは日常的に、怖がることなく、油断することもなく、
当たり前に防災や減災を意識し行動する人を増やすこと。これを目標に、
身の丈にあった形で、得意な領域を生かしつつ、コツコツやってまいります。
もしも興味を持っていただけたなら、ゆるくネットワークして、ご一緒いたしましょう。

TEAM防災ジャパンってなに?という方は
 こちら→ TEAM防災ジャパン をどうぞ。
ぼくの寄稿文はこちら からどうぞ。
 
謹賀新年2015「チョロい感じで参ります」(高階記)
2015年 01月 02日 (金) 23:30 | 編集
あけましておめでとうございます。
 
今年もLENZをよろしくお願いいたします。

 
LENZの結成は2003年なので干支がぐるりと一周したことになります。LENZは未年生まれだったんですね(LLCの設立は2011年ですが、クリエイティブ・ユニットLENZはもう12年になります)。
 
2015年はチョロい感じでいこうかと考えています。
漢字で書くと「長老(ちょろ)い」となります。

辞書で「ちょろい」を引くと、「考え方などが安易だ。浅薄だ。甘っちょろい。」とか「容易だ。簡単だ。」とか「取るに足りない。つまらない。」などと書いてあってあまりいい印象はないのだけれど、漢字で「長老」をあててみると「長老い」となって、ありがたいのかふざけているのかよくわからなくなります。このよくわからない感じで行きたいのです。
 
2014年に、個人的には非常に重要だと感じたキーワードに「長老(elders)/エルダーシップ」というものがあります。これは「指導者(leader)/リーダーシップ」と対をなす概念で、詳しくはリンク先で読んでいただくとして、リーダーシップの行き詰まりを乗り越える人物像や、振る舞い方として大変魅力的なのです。
 
【参考リンク】指導者(リーダー:leader)と長老(エルダー:elder)の違いについて/『紛争の心理学』(A・ミンデル・講談社現代新書)より
 
ただ、「エルダー」とか「エルダーシップ」はなじみのない言葉ですし、日本語にした時の「長老」という響きにも権威主義的な印象や、さもなければ隠居でもしてそうな高齢者感が漂っていて、あまりしっくりきません。「顔役」とか「頭(かしら)」なんて言葉も考えましたがこれもちょっと違います。伝法で切った張ったの荒っぽい世界を想像させます。
 
ぼくが「エルダーシップ」の話を聞いていいなと感じたのは(あくまでも個人的にですが)、子どもだって条件がそろえば「エルダー」の役割を果たすことがある、という点です。激しく罵り合う両親に向かって小さな子どもが放つ一言が大人の対立構造を変化させることがありますが、その時その幼子はエルダーなのです。
 
年齢も肩書きも関係ない。よく聞く耳を持ち、予断も偏見もなく、トラブルメーカーや独裁者も含めたすべてから常に学ぼうとし、無理に導こうとせず、場の流れを大切にできれば、誰だって(ぼくもあなたも)今すぐにだって「エルダー」になれる。それがエルダーに惹かれる点です。もちろん「リーダーシップ」も重要だけれど、いまやそこに限界や綻びがあるのは明白で、それを補完する存在が必要です。本来、「エルダー」と「リーダー」の両者がそろってバランスが取れるのではないかと感じるわけです。
 
LENZとして、あるいは高階個人としてめざすのは「エルダー」なんですが、できれば「長老」のイメージにはしたくない。でも「顔役・頭」も違う。そこであくまでおふざけの言葉遊びとして思いついたのが「長老い(ちょろい)」というわけ。「リーダシップが行き詰まったらチョロくいこう!」というスタンスです。
 
チャラ男なんて言葉があるので、チョロ男をめざしてもいい。これが実際の仕事の現場でどう働いてくれるのか未知数ではありますが、考えてみればぼくが関わるクリエイティブ・ミーティングの現場はすでにだいたいこの「チョロさ」が基調になっているような気もします。誰がぐいぐい引っ張るのでなくても場が動いて思いがけない展開が訪れる。そんな現場を昨年は多く体験できました。それを踏まえて2015年は、いよいよ意識的にチョロい方法論を試す年になりそうです。
 
ナンノコッチャのご挨拶ですが、ご興味のある方はお声がけください。経年劣化した「20世紀頭」を拭い去る「チョロさ」のすごみを体験していただけると思いますので。
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