クリエイティブ・ユニットLENZのblogです。
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【テツガクしようぜ】①「いじめゼロ」は空論である、か。 (たかしな記)
2018年 04月 24日 (火) 08:44 | 編集
年初にテツガクしようぜと書いてからずいぶん間が空いた。本当は1月から始めてもいいシリーズだったのだが、3ヶ月遅れとなった。まあ、年度始めだしちょうどいいだろう。これを始めるきっかけは、新しいテーマとして「いじめ」のことをあれこれ考える機会をもらったからだ。年来取り上げてきた森、食、防災、発達などに加えて、いじめもまたライフワーク的に向き合うこととなりそうだ。
  
「機会」というのは、詳しく書いてしまうとそれだけで長大になる恐れがあるので、ごくかいつまんで書く。雑に説明すればこんな感じだ。昨年の夏の終わり頃、とある仕事のお誘いを受けて参加して、「ソーシャルグッドに関心のある人がわいわい参加して、アクションのアイデアがどんどん生まれて、そこに関わる人がわっせわっせと実際に行動して、社会をちょびっとずつでもいいから、確実に動かしていく発信基地になるウェブサイト」づくりに関わってきたのだ。そのサイトで、初っ端(しょっぱな)に取り上げるテーマが「いじめから こどもをまもる」というわけだ。
  
テーマそのものに向き合っての議論は、サイト「social action lab (ソーシャルアクションラボ)」ですべき内容だ。だからここでは「その周辺」の話を書く。いわば「いじめをテツガクする」のだ。
 
 
   *
 
今回、いじめについて、初めてまともにたくさんの資料にあたり、レベルも内容もまちまちのいろいろなポイントで「へえ、知らなかった!」と驚き、「そんなことになっているんだ」とため息をついた。そして陥りがちな(ぼく自身陥っていた)誤解や、間違った形で広まってしまった「常識」が多々あることを知った。
 
たとえば「いじめゼロ」「いじめをなくそう」といった言葉。あまり深く考えずにいいフレーズとして使われているが、ちょっと考え始めると「それは無理だな」ということがわかる。
 
ここで「いじめ論」を展開するつもりはないが、話の流れ上、少しだけ書く。
 
いじめる側を「加害者」、いじめられる側を「被害者」、直接は参加しないがまわりで見ている者を「傍観者」と呼ぶとして、いじめが起きているかどうか判定できるのは「被害者」のみであって、「加害者」や「傍観者」が「友達同士でふざけていた」と証言しても何の意味もない。「被害者」が不快や苦痛を覚えていればそれは「いじめ」なのだ。外からは判断できないことも多い。しかもさらにややこしい例として、その「被害者」本人が先生や親・保護者に対して「自分はいじめられていない!」と主張することもよくあるからだ。そして最悪のケースでは、その同じ子が自殺後に遺書やメモの形で「いじめられていた」という内容のことを記していたというような実例がある。こういう形の「いじめ」をゼロにすることが可能だろうか?
 
今の学校の環境がそのまま変わらない状態で、そのようなケースが絶対に起きないようにすることなど不可能なのだ。であれば、早期発見と適切な対処というのがいますぐできる緊急の対策だということがわかる。
 
少々時間がかかるが本質的な対策としては「なぜ学校でいじめが起きるのか」というメカニズムを徹底的に分析して、いまの学校制度そのものが「いじめ発生機関」として機能していることを明らかにし、その機能をなくす腰を据えた取り組みも必要だ。
 
……というような議論のこの先は「social action lab」に任せることにする。ここで言いたいのは「いじめゼロはありえない」というのは、とりもなおさず、「人間はある条件が整えばいじめを発生させる生き物だ」ということだ。そのことを直視しないで、「いじめゼロ」という目標を掲げても空論に終わってしまう。そして、そのような「空論」はたぶん他のテーマに関してもしばしば発生している。
 
さらに、「いじめ」は何も子どもだけの問題ではないことや、そもそも「social action lab」で取り上げるような手強い社会課題との向き合い方はどうあるべきか、といったことへも展開していこう。うん。このくらいの長さでどんどん書く(続く)。
シリーズ【テツガクしようぜ】スタートのお知らせ
2018年 04月 24日 (火) 08:38 | 編集
            social action lab

2018年4月16日、毎日新聞のデジタル毎日で「social action lab (ソーシャルアクションラボ)」というサイトがオープンした。
 https://socialaction.mainichi.jp
 
これに合わせてしばらく【テツガクしようぜ】というシリーズを書き散らすことに決めた。当面は上記サイトで取り上げる「いじめ」から子どもを守ることを巡って。予定としては同じくサイトで取り上げる「貧困」や「暴力」から子どもを守ることを巡って。やがては「防災」や「民俗芸能」、「森」「食」「発達」「国・クニ」「マインドフルネス」などなど、この何年来、濃く関わってきたさまざまなテーマへと広げていきたい。
 
あまりにも別領域の話ばかりなので、とっちらかってしまう恐れもある。でもあえてそうするのは、10年ばかりあれこれ考えてきた感触として、一見バラバラに見えるテーマの課題解決のヒントとして共通するものがあるからだ。いわば通奏低音のように共通したキーワードがあるように感じている。それを明らかにしていきたい。
 
たとえば「食」をめぐってはオーガニック農法などの栽培法の背景に「栽培品種」の問題がある。これは「多様性/均質化」の問題である。「防災」をめぐっては「正常性バイアス(正常化の偏見)」に代表される人間の行動様式の話がある。これは「経済効率/レジリエンス」の問題ととらえることができる。「民俗芸能」について知るほどに、暮らしに根付いた文化が失われつつあることに気づく。これは「ローカルとグローバル」の問題として、上の「多様性/均質化」や「経済効率/レジリエンス」にもまっすぐつながっていく。
 
一つ一つの課題について考えを進めて行くと、いつも同じ場所にたどり着く。そんな体験を繰り返してきたのだ。そのことをうまくまとめられずにいたのだが、この機会に総ざらえしながら考えていこうと思う。
 
2018年度のLENZの目標として、1年かけてこれらの問題と取っ組み合ってみようと思う。まずはFBに書き散らし、みなさんのコメントもいただき、考えなおし、書き直し、清書して、やがてLENZブログにアップしてストックする。年度始めのチャレンジとしてそんなことを試みたい。
 
というわけで、次の投稿からさっそく始めよう。
【新年のご挨拶】テツガクしようぜ!(高階記)
2018年 01月 04日 (木) 13:38 | 編集
新年のご挨拶申し上げます。
旧年中、お世話になったみなさま、ありがとうございました。
昨年は残念ながらご縁のなかったみなさま、今年は楽しい場面でご一緒できることを楽しみにしております。
さてそういうわけで、本日より稼働するLENZ LLC.の年頭のご挨拶をば。
 
近況報告的に振り返ると、先日アップした「量的拡大から質的向上へ」「生き馬の目を抜くな」「グローバラナイゼーション」を形にし始めたのが昨年でした。具体的に皆さんの目に触れるのが2018年の3月くらいになりそうですが、数年来考え続けてきたことを世に出すための仕込みの年だったという印象です。
 
いずれもリリース前なので、個別の詳細は後日また【近況報告】でお伝えしますが、テーマ的には「食」だったり、「防災」だったり、「表現」だったり、「多様性」だったりと、もう何年何年も向き合い続けているものばかりです。なので、何か全く新しいことを立ち上げたというよりは、あれこれ模索してきた「未来はこうあってほしい」というビジョンを表に問いかけるチャンスをいただいたという感じです。プロジェクトに呼んでくださった方々に感謝するばかりです。
 
LENZ LLC.の全く新しい動きとして
・朗読&即興創作ソロライブ
・草加市での朗読指導
なんてことも始まりました。これはどう続いていくのか自分でも読めていませんが、自分の拠り所となる根っこなので、こちらは大事に育てていきたいと思います。
 
共通するのは「みんなが常識と思っていることって本当にそうなの? 4半期ではなく、2〜3世代先にも通用するものって何だろう?」なんて具合に、ゆっくりじっくり考える必要があることばかりってところです。たぶんそういうのが性に合っているんですね。「なんか面倒なことをいう奴だな」と思われると寂しいので、先手を打って「テツガクしよう!」と呼びかけることにします。
 
「テツガクする? けっこうじゃないか」
と思ってくださったみなさん。2018年もジャンルにとらわれることなく、いろいろな場所に飛び込んできたいと思っています。いつでも気軽にお声掛けください。一緒に面倒くさそうなことをアレコレお話いたしましょう。長く生き生きと続くものを育てるために。
 
本年もよろしくお願いいたします。
グローバラナイゼーション(2016年への助走③より)
2017年 12月 28日 (木) 09:03 | 編集
2年前の年末に「2016年への助走」と題して書いたものが、いまなお古びていなかったので転載する。こうして並べてみると、この数年、自分が言ったり首を突っ込んだりしていることは、割と一貫している。自分自身のポリシーとして間違っちゃいないんだなと思う。
 
   *
 
3つ目のこれは、まだ言葉だけ。
 
要するにグローバリゼーション(いろいろな意味があるみたいだけどここでは社会・文化・経済の国際的な平準化を念頭に書いてます)に何もかもが飲み込まれるのはちょっとヤダね、って話。
 
日本全国どこも都市の郊外に似たようなロードサイドのチェーン店がずらっと並んでいるようなの、気持ち悪いよねという感覚。グローバルな統一基準とかよく聞くけど、それはどこの文化のどんな価値観なのという疑問。経済的優位に立つ者が弱者を飲み込んで拡大していくけど、そこで失われるローカルだったりミニマムな価値はどうなるのという不安。
 
すごく感覚的だったり感情論的だったりするかもしれない部分だけれど、つまるところ「グローバリゼーションってなんか、ガサツじゃねえ?」というところに尽きると思う。
 
で、そういう国際的で圧倒的な勢いの流れに飲み込まれたり、踏み潰されたりせずに、小規模なりとも平然と元気にやっていけるような「場」なり「組織」なり「コミュニティ」なりをつくりたいし、どうせならばそっちの側を盛り上げることに関わった方が楽しそうだ。ということ。
 
とりあえずのメモ。
生き馬の目を抜くな(2016年への助走②より)
2017年 12月 28日 (木) 09:01 | 編集
2年前の年末に「2016年への助走」と題して書いたものが、いまなお古びていなかったので転載する。記述は2015年当時のものである。
 
   *
 
いま(2015年12月)『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン/講談社)をちょっとずつ読み進めていることは、このところちょくちょく書いているのだが、2011年11月に出たこの本を4年遅れで読みながら、あれこれ考えている。http://www.amazon.co.jp/dp/4062171260/
 
ジョブズという人のやり方に学ぶことなどないし(特異すぎる)、ジョブズが引っ張った時期のアップルの真似をする必要も感じないし(真似などまったく意味がない)、また、それを人にも勧められないけれど、にもかかわらず、ここには面白いネタがわんさか詰まっている。
 
例えば今日目にしたフレーズでも(たぶん有名な言葉だと思うが)
「自分で自分を食わなければ、誰かに食われるだけだからね」
という自社内の共食いを恐れない姿勢を示す言葉を読んで「なかなかそうは考えられない人の方が多いんだよなあ」と嘆息する。嘆息するが、これなんかは、ジョブズを例に出すまでもなく、腹さえくくれば誰にでも取り組める企業の活性化策、マンネリ脱出策である。
 
そんなことを考えながらふと思いついた。
 
「いまさらその本を読んでいるの?」と言われてしまうような本はたぶん読む価値がない。「生き馬の目を抜くような、変化の激しいこの世界で4年前の本になど意味がない」というようなレベルの本はそもそも一度も読まなくていい(極論です)。
 
面白いネタがわんさかあって、普遍的だったり、読んでいる時代の事象に適応して示唆するものがたくさんあるならば、4年経とうが、40年経とうが、その本は読む価値がある。そしてどうせならそういうものと出会い続けたい。
 
コピーライターなんぞと名乗り、広告の世界に身を置いて、熾烈な競争の中での生き残り勝ち残ることに血なまこになる価値観にどっぷり浸かっていると、ついつい目新しい情報に飛びついてしまいたくなりがちなのだけれど、4年経って古くなるような薄っぺらい情報を得意げに振りかざしてしまうとしたら、そんな奴はかえって迷惑だ。いない方がいい。
 
生き馬の目を抜くな。生き馬の目を抜く世界で借り物の知識をひけらかすような奴は信用するな。そんなことを考える年の瀬である。
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